<今こそノムさんの教え(34)>「天才じゃないなら狙いを絞れ」

 テレビドラマ「予備校ブギ」が人気だった1990年代前半。受験生の筆者は現代文の成績を放っておけなかった。とにかく難解な文章と格闘するのが苦手。ある日書店で魅惑的な参考書「例の方法」に出会う。開くと魔法のような「驚異のテクニック」が。「出題者がどのような心理で選択肢を設定したかを見破る」「本文を読まなくとも問題の選択肢から正解を導き出す」。正攻法に思えず、そっと棚に戻した。30年近く過ぎ、ひそかに中古本市場で万単位に高騰している。

 今回の語録「天才じゃないなら狙いを絞れ」。野村監督は頭を使っていると思えない打者ほど意識の変化を求めた。出発点の考え方は中国の古典「孫子の兵法」。有名な「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」。試合で真っ向からの攻防を繰り広げる前に情報を集める。そして相手バッテリーを心理学、行動学的に観察、洞察して確率の低い選択肢は一つずつ捨てていく。おや、あの参考書と同じ論調のような…。

東北楽天-西武 5回、3ランを放った山崎武を笑顔で迎える東北楽天・野村監督(右)=2009年10月3日、Kスタ宮城(当時)

 東北楽天ベンチ、野村監督が試合展開の予測をつぶやく。野球の神様の啓示を受けているかのようにずばずば当たる。2007年5月の日本ハム戦。一回1死一、三塁の攻撃。野村監督は数秒後に訪れるだろう状況を予感した。

 「山崎は外角スライダーで三振。捕手が二塁送球するのが見える」

 打席の山崎武司はカウント2―2から直球をファウル、続く内角直球も見逃してフルカウントに追い込まれた。次の球で最悪の三振併殺になる可能性を予見した野村監督は、瞬時にあるサインを出す。

 やはり外角スライダーを投げてきた。そして山崎武のバットが空を切った。

 予感はピンチをチャンスに変える。

 ほぼ同時に一走高須洋介が二塁へ走った。捕手高橋信二が二塁送球。今度は三走渡辺直人が果敢に本塁を陥れた。重盗成功だ。

 見事な先制。「企業秘密。でも根拠あるよ」。野村監督はけむに巻いたが、高橋が高い確率で二塁送球する裏付けが確信的にあったようだった。

 野村監督は「俺のデータ活用は単なる過去の数字の寄せ集めじゃない。余計な選択肢を捨て、開き直り、狙いを絞るための準備作業」と自信を持っていた。

 筆者が思うに「過去」「現在」の分析から「未来」を切り開くのが野村流だ。

 先ほどの捕手の送球先のように、状況ごとに相手の行動履歴を把握しておく。この「過去」の蓄積から作戦プランを立てる。いざ試合に臨めば「現在」の確認だ。相手の細かなしぐさを加味し、作戦の可否を肌感覚で決める。あとは集中力と覚悟を持って決行するだけ。的中すれば成功という「未来」にたどり着く。結果が裏目でも、野村監督は意図が明らかなら、厳しくはしなかった。

 野村監督はとにかく考える習慣を身に付けさせようと選手を刺激した。代表例が東北楽天の山崎武司だ。

 山崎は野村楽天1年目の2006年、38歳で打率2割4分1厘、19本塁打、67打点とまずまずの成績だった。外国人選手のような強烈な打球はチームの誰にも追随を許さなかった。

 「50歳までプレーできると思えるほど体が若い」。野村監督は思った。バッテリーとの駆け引きに習熟すれば、成績を伸ばせる余地も感じた。自分が選手時代、カーブ打ちに苦しんだ末「考える野球」に目覚めて飛躍した時のように(第33回「限界を感じてからが本当の戦い」参照)。

 山崎は基本来た球に合わせるだけのスタイルだった。巧打者ではないのに。監督にはそれが目に余っていた。ある時、諭す。

 「なぜ、どんな球にも対応できる器用な天才のような打ち方をするんだ。お前も俺と同じく不器用なんだろう? ならば不器用に徹しろ。頭を使って、狙いを絞って打てよ」

 急に言われても選手側からすれば、どこから着手していいか分からない。野村監督は選択肢の減らし方を教える。それが「長距離打者の特権を生かせ」。

 「お前、最初から速球ばかり待っているが、投手がどう思っているか分かるか? 一発が怖いんだよ。速球が失投になるのを嫌がるんだ。お前にいきなりストライクの速球を投げてくる相手なんてそういない。まず変化球やボール球で探ったり、誘ったりだろう」

 長打力があるだけで、そもそも有利に立っている。山崎が見過ごしていた「特権」を監督は言い当てた。

 もともと大柄な体に繊細な感性を備えていた山崎。一気に「不器用流」に開眼する。07年5月2日ソフトバンク戦、先発は左腕和田毅だった。過去35打数2安打の打率5分7厘と「バットに当たる気さえしない」相手。にもかかわらず、2打席連発と大当たりする。

 「優位に立ってくる投手への対処法」。これを野村監督から教わった。和田は実際、山崎を見下して投げていた。早い段階から簡単にストライクを狙っていた。

 ここに監督は突破口を示す。「最初のストライクを狙ったらどうだ。外角スライダーで来る確率が高い」

 二回無死一塁。「前の打者には真っすぐが多いな」。こう思った山崎は、打席で狙いを修正する。外角直球を仕留めた結果は左翼席へ見事な先制2ラン。

 続く四回1死。今度は監督の言う通りになった。1球目を見送ってボール。直後、外角に最初のストライクを狙うスライダーが来た。山崎は見事にとらえて追撃のソロに。今まで打たれたことのない形に、和田は首をかしげた。試合は山崎の3打点が物を言って、4―2で勝利。

 「どうせ和田を打てないんだから、監督の言う通りにやってみるか」。軽い気持ちで臨んだのが、奏功した。「力んだって打てないんだから、脱力打法で軽く打っちゃえ」。5割程度の力感で振ると、どんぴしゃりでボールを仕留めた。

 野村監督は遊び心を持って努力する「不真面目な優等生」を高く評価する(同名の第8回参照)。この時の山崎がまさにそれ。

 そして1試合だけの一発屋で終わらなかった。この年43本塁打、107打点でパリーグ二冠王となり、球団初の最下位脱出をけん引した。本塁打王は自身として中日時代の1996年以来。両リーグでの獲得は歴代3人目。さらに39歳シーズンでの二冠王達成は88年の40歳門田博光(南海)に続く高年齢記録で、「おじさんの星」と世間を沸かせた。

 ほとんどのファンがお忘れだろうが、翌年の初対戦でも和田から2連発している。「僕や妹、犬の誕生日にまでホームランをプレゼントしてくれる」と長男に信頼されていた山崎。ある記念日の6月29日、見事に本領発揮する。

 1年越しの駆け引きがあった。打たれた球をもう一度投げてこないだろうと思うのが打者心理。だからこそ投手は裏をかいて、同じ球を投げようとする。

 第1打席は二回に訪れた。山崎は「去年打った外角スライダー」に狙いを定めた。結果、読みは正解ではなかった。和田は危険を察知したか、フォークで来た。しかしスライダーと似たような球速で、制球も甘かった。山崎のタイミングはぴたり。打球は左翼席へ。

 四回の第2打席。山崎は確信した。「もう相手はスライダー、フォークが使えない。真っすぐ一本だ」。来たのは投手が困った時に頼る外角低めの速球。狙わないと打てない難しい球を、山崎は強打。右翼席へ運んでみせた。

 「こうなったら3連発を狙ってみろ」。「不器用流」家元の野村監督は山崎の腕前を試した。

 五回の第3打席、山崎は別の右腕が投げた内角速球を左翼フェンス直撃の二塁打にした。師匠の評価は? 「打ち損じた。本塁打にできる球を我慢して待たないとなあ」。野村監督は狙った球種でも、コースまで狙い通りに来たと冷静に判断して打つ「二段構え」をよしとする。欲が先んじて力めば、絶好球で凡打に終わる可能性もあるからだ。

 とはいえ試合は山崎の打棒があって15―2の大勝。野村監督はご満悦だった。「最高のプレゼントをもらった。言うことありません」。73歳の誕生日だった。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当、ツイッターのアカウント名は「金野正之@河北新報『今こそノムさんの教え』の人」)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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