被災した新聞社、心臓部止まる 地方紙の連帯が危機救う 東日本大震災
【2011年3月11日・河北新報社ドキュメント】
東日本大震災で、河北新報社は紙面制作の心臓部である基本サーバーが倒れ、自社で紙面を組み上げられない事態に陥った。危機を救ったのは友好社の新潟日報社(新潟市)。1面と最終面を連結した紙面構成は同社のアイデアだった。震災報道の出発点となった2011年3月12日の河北新報朝刊は、どう作られたのか。11日の動きを振り返る。(敬称略、肩書と年齢は当時)
午後2時46分
サーバー倒れる
長く大きな揺れが収まった。河北新報社編集局長の太田巌(58)は「まず号外発行だ」と考えた。そもそも新聞は作れるのか。情報を集めていると、目の前の電話が鳴った。
「大丈夫ですか。やれることがあったら何でもやります」
新潟日報社編集局の幹部からだった。まだ被害の概要すら分からない。太田は「ありがとうございます」と礼を述べて、受話器を置いた。
システム部から悪い知らせが届く。8階の基本サーバーが倒れたという。立て直して再起動しても作動する保証はない。動いても紙面制作で負荷が掛かれば、システムダウンする恐れがあった。
午後3時20分
自社制作を断念
太田は自社での制作を断念。「緊急時新聞制作相互支援協定」を結んでいた新潟日報社に、号外2ページ、朝刊8ページの災害紙面制作を要請した。両者は約1カ月前の2月16日、紙面交換のテストを実施していた。
新潟日報社の動きは早かった。自社の朝刊とは別に、河北の紙面を担当する整理記者が必要だ。非番の整理部員約10人を呼び出し、人員を確保した。
午後3時半
新潟へ2人を派遣
河北の編集局次長、草刈順(56)は「新潟に整理部員を派遣しないと。紙面に少しでも河北らしさを反映させたい」と考えた。整理部長の原谷守(52)は、ベテランデスクの千葉行也(51)とシステムに詳しい射浜大輔(35)に新潟行きを指示。午後3時半、2人は慌ただしく車で仙台をたった。
新潟日報社整理部の高橋央樹(ひろき)(29)は、休みで自宅にいた際、長い横揺れに見舞われた。新潟市で震度4。テレビを見ると震源は東北の太平洋沖で、大津波警報が出ている。午後3時半すぎ、津波が東北を襲う映像が流れた。
「とんでもないことになった」。自主的に出社すると「河北の1面をやってくれ」と指示された。制作代行とはいえ、組み上げるのは使い慣れた端末。緊張はなかったという。
河北新報の号外は新潟日報社によって制作され、午後4時35分、河北新報社に「号外用紙面データをアップした」との連絡が入った。
データの受信難航
河北側は素早い対応に感謝し、データを取り込もうとしたがうまくいかない。インターネット回線が不通となっていた。
システム局技術委員の遠藤和利(51)は焦った。手を尽くしても受信できない。頭を抱えていた午後5時半ごろ、「何かできることはありますか」と声を掛けられた。
午後5時半
共同通信社も支援
河北本社3階に入る共同通信社仙台支社の元システム技術部長板橋晃(56)だった。2月末で退職した板橋だが、尋常ではない揺れに安否確認などを手伝おうと出社していた。
遠藤が「ネットがつながらず、号外を出せない。何とかなりませんか」と相談すると、板橋は「共同通信の回線が使えますよ」。遠藤は「まさに救世主だった」と振り返る。
共同通信社仙台支社でネット回線を借り、東京経由で新潟日報社のサーバーにアクセス。午後6時55分、ようやく紙面データを受信でき、号外発行にこぎ着けた。
1面と最終面連結
その頃、新潟日報社は自社と河北、両方の朝刊作業を続けていた。未曽有の大災害をどう報じるか。1面は、テレビ欄の最終面と連結した「ダブルフロント」でいくことが決まった。新潟日報と同じように、河北新報も組まれた。
ダブルフロントは写真を大きく使えるのがメリット。09年、夏の甲子園で新潟県代表の日本文理高が準優勝した際や同年の新潟国体開幕報道で採用した実績があった。
河北から「整理部員2人を派遣した」と連絡はあったが、高速道路は通行止めでいつ到着するか分からない。整理部デスクの武田雅裕(39)は「とにかく8ページを組み上げよう」と考えた。
午後9時半
「えっ、題字が左?」
「お世話になります」。新潟日報社の編集局に千葉と射浜が滑り込んだ。仙台出発から6時間。武田と高橋は「本当に来たんだ」と驚いた。千葉と射浜は気仙沼市が火の海になったテレビ映像に言葉を失った。
あいさつもそこそこに、紙面の打ち合わせが始まる。8ページの紙面はあらかた組み上がっていた。千葉は、河北では見たことのないレイアウトに戸惑いながら「すごい」と感じた。急いで本社と連絡を取った。
電話で紙面構成を伝えられた原谷だが、全くイメージが湧かない。ファクスで紙面を送ってもらうと、整理部員がどよめいた。「えっ、題字が左?」「こんな組み方があるんだ…」
創刊以来、河北新報の題字を動かしたことはない。報告を受けた社長の一力雅彦(50)は「大災害をひと目で伝えるには的確な紙面だ」と、迷うことなく了承した。
「数字は勘弁してくれ」
新潟では緊迫した作業が続いた。事態の深刻さをどう伝えるか。見出しを付けるのは整理記者の最も大事な仕事だ。新潟日報1面の見出しは、犠牲者数に焦点を当てていた。河北の1面を担当した高橋もそれにならおうとすると、千葉に止められた。「まだ全容が分からない。数字は勘弁してくれ」
やりとりを見ていた新潟のデスク広瀬俊之(44)は「読者に寄り添うとは、こういうことなのか。胸を打たれた」と話す。
千葉は社会面を担当した射浜に「東京の被害より地元の記事を大きく」と指示した。射浜は大学入試の延期や、仙台市役所を避難所として開放する記事を大きく扱うよう頼んだ。
次第に地元紙らしく仕上がる紙面。高橋は「初めは『遠慮しない人だな』と感じたが、2人と作業を進めるうちに河北を作っているんだとの意識に変わっていった。絶対に紙齢を途切れさせない強い覚悟を感じ、身が引き締まった」と振り返る。
午後11時半
「時間だ」の声
時間が過ぎる。遅れると被災地の読者へ新聞が届けられない。武田と高橋に「もう時間だぜ」と声を張り上げる千葉。緊迫感と、新聞を届けたいという使命感が周囲に伝わった。
午後11時半、紙面が完成した。大声を出し続けた千葉は、のどがガラガラになっていた。
ダブルフロントの紙面はデータが大きく、受信に時間を要した。12日午前0時20分、仙台市泉区の河北新報印刷センターで輪転機が回りだした。午前3時10分、約47万部の印刷が終わり、トラックが販売店へと出発していった。
「何のための100年か」
あの日、新聞を発行できたことを一力は「いま発行しないで何のために100年以上新聞を作ってきたのか、という思いだった。紙齢をつなげたのは新潟日報社のおかげであり、感謝に堪えない」と話す。
震災報道続ける意義、心に刻む
この取材で初めて、あの日の新聞の実物を手に取った。「これ、いつもと同じサイズですよね」。新聞が普段よりも大きく見え、思わず聞いた。目に飛び込む「宮城震度7 大津波」の見出し、ページをまたいだ迫力ある写真が災害の重大さを物語る。レイアウト次第で与える印象がこうも変わるのか。紙の訴求力に驚いた。
倒れたサーバーがある8階は、入社時に1度見学したきり。整理部の経験もない。取材を通して新聞製作の仕組みを理解し、当時の状況も少しずつ見えてきた。工程が一つ欠けてしまえば新聞は完成しないのだと痛感した。
新潟と東北。日ごろはそれぞれの地元を手厚く報じる新潟日報と河北新報は、協定を通じて支え合った。新聞発行を絶やさない意志と、震災報道を続ける意義を心に刻み続けたい。(島形桜)
東北の各新聞社、支え合い朝刊発行
東日本大震災時、東北の新聞各社は同業者と支え合い、朝刊発行にこぎ着けた。停電で輪転機が稼働できなかったのはデーリー東北新聞社(八戸市)と岩手日報社(盛岡市)、山形新聞社(山形市)。デーリー東北は岩手日日新聞社(一関市)、岩手日報は東奥日報社(青森市)、山形新聞は新潟日報社に印刷を要請した。岩手日報は紙面制作も東奥日報に要請した。
福島民報社(福島市)は断水の影響で、印刷の一部を毎日新聞首都圏センター(同)に依頼。福島民友新聞社(同)は停電により、3月12日の浜通り、会津・県南向け紙面制作を読売新聞東京本社に要請した。
4月7日の最大余震の際の停電でもデーリー東北が岩手日日、岩手日報が秋田魁新報社、山形新聞は新潟日報に印刷を頼んだ。
今回の特集は報道部島形桜(23)、整理部八木高寛(34)が担当しました。
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東日本大震災の発生から13年。あの日を知らない若い世代が増える中で、命を守る教訓を伝え継ぐために何ができるのか。震災後に河北新報社に入社した記者たちが、読者や被災地の皆さんと一緒に考え、発信していきます。