ウクライナ侵攻に当時よみがえる 元国鉄職員、機銃弾2発貫通の痛み今も

 太平洋戦争末期、鉄路の要衝だった小牛田駅周辺(現宮城県美里町)が標的になった小牛田空襲。20人以上が犠牲になったとされる空襲で、銃撃を受けた大崎市田尻の元国鉄職員小野寺煌治さん(92)の手記が、美里町で開催中の「遠田平和展」で公開されている。当時の体験を小野寺さんに聞いた。
(小牛田支局・横山浩之)

機銃弾の貫通痕が残る左足を見せる小野寺さん

 1945年夏。農家の長男として生まれた小野寺さんは高齢の父を手伝うため小牛田農林高を中退、人手不足だった国鉄で働いていた。

 「グラマン戦闘機による機銃掃射爆弾攻撃をこの地域で初めて受けました」

 8月9日早朝、15歳だった小野寺さんは投炭作業をする機関助士見習いとして、小牛田駅発新庄行き貨物列車の蒸気機関車に乗っていた。午前7時ごろ、陸前谷地駅(美里町)付近で機影が見えたとの情報で機関車は急停車。「弾は水の中では効かない」。軍人だった父の言葉を思い出し、機関車を降り、炭と水槽を積んだ炭水車の下に潜った。

 被弾したのはそれからすぐ。機銃掃射で機関車や炭水車が穴だらけになり、自身の左足裏と太ももを2発の弾が貫通した。棒でたたかれたような衝撃。「短い時間だったが長く感じた」と振り返る。

 搬送先の病院があった古川でも同じ日、空襲があった。新たな被害は受けなかったが、「ここで死ぬより、自宅で死にたい」と絶望感が募った。

 終戦を迎え、自宅に帰って養生していると、ふとした拍子に足をぶつけて痛みが増した。弾の破片を取り除く手術を受け、湯治もしたが治ることはなかった。箟岳(ののだけ)山参りに出かけた際も、帰り道は電信柱にすがって歩いたという。

 「足が悪いから、重労働はできない。その分商売しよう」。三本木の亜炭運搬やワカメ乾燥機の開発、和牛飼育などを手がけ、今も35ヘクタールの農地を管理する。

非武装の民間人が一番の被害者

 撃たれた太ももの痛みは続き、左足の人さし指と中指は動かないままだ。

 ロシアに侵攻されたウクライナの惨状を見るたび、77年前の体験がよみがえる。「戦争ほどひどいものはない。非武装の民間人が一番の被害者だ」

 遠田平和展は、美里町のJR小牛田駅構内の町総合案内所で31日まで開催。午前9時~正午、午後1~5時(31日は午後3時まで)。月曜日は休み。連絡先は、主催する遠田地区護憲平和センターの沖田捷夫(かつお)さん090(1062)5755。

[小牛田空襲]1945年8月9、10日、東北線など3路線が交わる鉄道の要衝だった小牛田駅周辺(現宮城県美里町)を米軍機が攻撃した。日本側の史料や体験者の聞き取り調査をした遠田地区護憲平和センターによると、2日間の爆弾投下や機銃掃射で少なくとも20人が犠牲になった。米軍側の戦闘報告書では確認されていない空襲被害があったとされ、不明な部分も多い。

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