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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>新たな移民と律令制

霊亀元年の坂東からの富民一千戸移配
赤井官衙遺跡から出土した南武蔵系土器(「赤井遺跡総括報告書II」より。東松島市教委提供)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配

<蝦夷との関係安定図る>

 飛鳥に日本最初の都城である藤原宮が造営された7世紀末~8世紀初め、全国的に真北を基準に国(くに)・評(こおり)(大宝令からは郡(こおり))の施設を造り変えました。そして律令国家は「国郡里制(くにぐんりせい)」という制度で地域・人民を統治しました。全国を66の国、約550の郡に分けます。さらに郡は二十~二里で一つの郡に、里は五十戸で一つの里に数えられました。国家の勢力範囲の外側の蝦夷の地に造営された柵も同様に真北を基準に改変され、律令制度の及ぶ範囲となります。

 飛鳥浄御原令から大宝律令施行の頃の牡鹿地方は、大化改新以降の関東からの移民によって赤井遺跡が大きな集落になるなど戸数は増えたものの、地域内では「里(さと)」の単位となる五十戸に満たないほどの戸数しかなかったのではないかと想像されます。牡鹿地方に限らず仙台平野から北の大崎・牡鹿地方全体が、戸数が少なくて「里」を形成できない状況でした。郡は2里以上で成り立ちますから、郡として成り立たなかったのです。そこで国家は、牡鹿柵などの城柵設置によって蝦夷との関係が安定した地域を開発・統治するために新たに大量の公民を移住させたのです。

■公民2万人移住

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」霊亀(れいき)元(715)年五月三十日条に「相摸(さがみ)・上総(かずさ)・常陸(ひたち)・上野(かみつけ)・武蔵(むさし)・下野(しもつけ)の六国の富(と)める民(たみ)千戸を移して陸奥に配(お)く。」(原文は漢文)という記事があります。

 相摸、上総、常陸、上野、武蔵、下野は現在の神奈川県、千葉県南部、茨城県、群馬県、埼玉県・東京都、栃木県に当たります。律令国家の指示の下、関東各地から富裕な一千戸の公民が選ばれて移住させられたのです。正倉院に残る戸籍から推定すると一戸は約20人ほどですから、一千戸は約2万人に相当します。令制では1里が50戸ですから、20里に相当する人が移住させられたことになります。

■牡鹿にも相当数

 さて、一千戸(約2万人)もの人々は陸奥国のどこに移住させられたのでしょうか。陸奥国南部の阿武隈川流域の宮城県南端部や福島県域は古墳時代後期から国造(くにのみやつこ)が置かれた安定した地域でした。関東からの移民の移配先は、不安定だった城柵設置地域の仙台平野から大崎・石巻地域であったと考えられます。したがって、牡鹿地方にも相当数の人が移配されたと考えられます。

 「続日本紀」には、関東から大量の移配が行われる2年前の和銅6(713)年に「陸奥国に丹取(にとり)郡を置く」という記事があります。大崎市古川の名生館官衙(かんが)遺跡と南小林遺跡が丹取郡家(郡の役所)、丹取郡正倉(米を収める倉庫)の遺跡と考えられています。丹取郡を設置して地域を治めようとしたのですが、郡を構成する戸数が少ないことから、かなり広範囲の地域を郡域とせざるを得なかったと考えられます。それまで広範囲を治める在地豪族もおらず、つながりの薄かった広範囲を一つの郡にまとめるのは困難だったことでしょう。

 律令国家が制度で城柵地域の統治を行うためには、比較的狭い範囲を郡域にしなければなりません。そのためにはどうしても多数の公民が必要だったのです。大化改新以降に移住した公民と新たに移住させた公民を合わせて、大崎・牡鹿地域に10の郡を成立させました。後に「続日本紀」に登場する「黒川以北十郡」です。

■関東系土器出土

 関東からの新たな移民があった8世紀前葉は、赤井官衙遺跡III-2期に当たります。この時期に「続日本紀」に記載された移民を示すかのように、新たな関東系土師器が出土しています。南武蔵地域(現在の東京都・神奈川県東部)の特徴を持った土器です。赤井官衙遺跡でこの土器を作り、使った人たちが、霊亀元年に新たに移住してきた人たちの一部と考えられるのです。

 この霊亀元年の移民によって黒川以北10郡を建郡し、律令法による租・調・庸・雑徭・兵役などの税や労働を課し、在地支配を実行したのです。

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