発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>海道の蝦夷の朝貢
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配
<国と三陸、交流の玄関口>
東松島市赤井官衙(かんが)遺跡(牡鹿郡家(ぐうけ)兼牡鹿柵)が造営されて周辺の集落が復興した頃、さらに北方の蝦夷たちとの関係はどうだったのでしょう。
■続日本紀に記事
「日本書紀」の次に編さんされた日本の正式な歴史書である「続日本紀(しょくにほんぎ)」に次のような記事があります。霊亀元(715)年十月二九日条に「陸奥の蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべつのきみうそみな)ら言(もう)さく『親族死亡にて子孫数人、常に狄徒(てきと)に抄略(しょうりゃく)せられんことを恐(おそ)る。請(こ)はくは香河村に郡家を造り建て、編戸の民として永く安堵を保たんことを』ともうす。また、蝦夷須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)ら言さく、『先祖より以来、昆布を貢献(たてまつ)れり。常に此地に採りて、年時闕(か)かず。今、国府郭下(こくふかくか)、相去ること道遠く、往還旬を累(かさ)ねて、甚だ辛苦多し。請はくは、閉村に便(たより)に郡家を建て、百姓に同じくして、共に親族を率いて、永く貢を闕かざらんことを』ともうす。並びにこれを許す。」(原文は漢文)とあります。
前半の内容は、服属して第三等という蝦夷爵と「君」の姓(かばね)を授かっている邑良志別君宇蘇弥奈の一族が親族が死亡して人数が減っているので香河村に役所を建てて戸籍に登録して国家に安堵を求める申請です。後半は服属して「君」の姓を授かっている須賀君古麻比留たちが、先祖から欠かさず地元で採れた昆布を陸奥国府(城柵)に貢物として運んでいるが、国府まで距離が遠く運ぶのが大変なので、閇村に役所を建てて親族の国家による安堵を求める申請です。
閉村は現在の岩手県宮古市を中心とした三陸沿岸の蝦夷村と考えられます。三陸沿岸の蝦夷村から陸奥国府に毎年朝貢(ちょうこう)していたことが分かります。この記事は多賀城が創建される前の記事ですから、仙台郡山遺跡II期官衙に朝貢したものでしょう。「国府郭下」は国府ばかりでなく城柵をさす場合もあると考えると、三陸沿岸を回って海道に設置された牡鹿柵に朝貢した可能性も推定されます。
■装飾した出土品
霊亀元(715)年は赤井遺跡III-1期に当たります。驚くべきことに、この時期の赤井遺跡から三陸沿岸の蝦夷が使っていた土器が出土しています。東北地方北部系土師器と呼んでいる土師器甕の破片です。
当時の大崎・石巻平野以南の人が使用していた土師器は模様や着色などの装飾は施されませんが、岩手県から青森県にかけての蝦夷が使っていた土器には、ギザギザの山の形(鋸歯文(きょしもん))を線刻で描いたものや赤い塗料で色を塗ったものがあります。赤井遺跡からは鋸歯文を描いた甕の頸(くび)の破片がいくつも出土しているのです。破片は2~3センチの小さな破片ですが、接合しないので複数の甕が運ばれてきているようです。鋸歯文は金属のナイフような鋭利な工具で描いています。鋭利な鋸歯文は三陸沿岸の蝦夷の甕の特徴でもあります。
赤井遺跡では出土する場所も限られていて「館院(たちいん)2地区南方院」とその周辺からしか出土しません。恐らく三陸の蝦夷が甕を携えて牡鹿柵に来て、館院2地区で儀礼を行ったのでしょう。甕には昆布が入っていたかもしれません。
■閉村で官衙土器
逆に「続日本紀」に登場する「閉村」と考えられる宮古市周辺の7世紀末から8世紀前葉の遺跡からは大崎・石巻平野以南で使われる官衙的土器と東海産須恵器が幾つか出土しています。土師器の高脚スカシ付高坏と静岡県湖西窯跡群(こさいかまあとぐん)産須恵器です。宮古市津軽石大森(つがるいしおおもり)遺跡からは高脚スカシ付高坏が、同市田鎖車堂前(たぐさりくるまどうまえ)遺跡からは湖西産須恵器が、山田町房(ぼう)の沢古墳(さわこふん)群からは両者が出土しています。
三陸のこれらの遺跡は赤井官衙遺跡や国府仙台郡山官衙遺跡と密接に関わっていたようです。赤井官衙遺跡(牡鹿郡家兼牡鹿柵)は律令国家と三陸の蝦夷たちの交流の玄関口であったのです。
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