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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第5部 サケマス船団長編(2) 大役、国際委員会の日本代表顧問に

INPFCのレセプションに出席した須能さん(左)。食事をしながら他国の関係者と親睦を深めた=1986年
須能さんが受け取ったINPFCの日本代表顧問の委嘱状

 船団長になった1986年、私はもうひとつ大きな仕事を任される。10月25日に、外務省から米国のアラスカ州アンカレジで開催される北太平洋漁業国際委員会(INPFC)の日本代表顧問に委嘱された。

 INPFCが開催される時、日本代表顧問は大手水産会社の船団長が務めることが多かった。私の前も日本水産(現ニッスイ)や日魯漁業(現マルハニチロ)の船団長らが同じように会議に出席していたと思う。

 委嘱状は会社内の大きな部屋に呼ばれたり、大勢の前で渡されたりするのを想像するかもしれないが、私の時は辞令交付式のようなものはなく、書類を渡されただけで終わった記憶がある。

 INPFCは休会日を含めて1週間程度だったと思う。はじめは科学者を中心とした会議で、残りは米国、カナダ、日本の水産関係者が水産物の資源管理などについて意見を交わす。

 私は駐在員時代、INPFCに手伝いで出席したことがあるため、米国とカナダの出席者は知り合いばかり。日本政府の関係者らが「相手の意見を聞いてきてくれ」と頼んでくると、雑談ついでに情報を集めて通訳するなど、便利屋のような仕事をしていた。

 休みの日でも資料作成などをしていたが、まったく休まなかったわけでもない。会議の出席者が親睦を深めるレセプションも開かれ、お酒を酌み交わすのはもちろん、記念撮影をするなど、リラックスすることもできたのは良い思い出だ。

 86年は船団長だけでなく船団管理人という役職も任された。必ずこの仕事をしなくてはいけないというものはなかったが、大勢の船団員の命を預かる身として責任を持って働くようにという自覚を促す意味があったとのではないかと思う。

 辞令はサケマス漁の出港の日にあり、天辰祐之郎(ゆうしろう)社長(当時)から函館で言われた。立会人でいたのは大洋漁業がひいきにしている銀座の高級クラブのママさんだった。

 船団管理人は船団長に与えられる役職で、歴代の船団長の時に誰が立会人になっていたかは分からない。ただ、クラブのママさんということはないはずだ。

 そうなったのには理由があり、私を含め数人で来店した際、一緒に飲みに行った同僚の誰かが「須能が船団長になった」ということをママさんにしゃべった。

 ママさんは私を弟のようにかわいがってくれていて「あんたの晴れ舞台なんだから出発の時に見送りにいくわ」と喜んでくれた。

 出港の当日、本当に来てくれるとは思っていなかったので驚いた。気にしてくれていたことを考えるとうれしかった。

 私が駐在員や船団長をしていたころは米国などの主要な国が200カイリ(約370キロ)漁業水域の導入に踏み切っていて、日本は今までの漁業を見直す必要があった時期だった。

 駐在員時代だけでなく、日本に戻ってきてからも国際会議に出ていたので、歴代の船団長よりも仕事が多く、他の人から見てみれば苦労の多い時代だったかもしれない。

 船団長になった最初の年は漁のやり方を選択する立場だったので、判断に迷うこともあった。その時は直近の団長らがどうしていたかを思い出しながら仕事をしていた。

 大変だったが駐在員時代と同様、子どものころから夢だった「水産の国際会議への出席」もできて、とても印象に残る1年だった。

 今考えると夢の実現に時間がかかってしまったかもしれないが、自分の歩んで来た道が間違いではなかったと証明できたのではないかと思っている。

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