<決壊>第2部・絡まる流れ-吉田川[2]人知の攻防/美田守る先駆的技術

左上から右下に流れる吉田川と水路が立体交差するサイホン。流域には時代ごとに先端の治水対策が施された=16日、宮城県松島町幡谷

 河川敷にうずたかく積まれた土砂を、ショベルカーがせわしなく大型ダンプに載せていく。

 12月中旬、大崎市鹿島台木間塚の鳴瀬川堤防に、近くを流れる支流・吉田川の川底から掘削された土砂が仮置きされていた。土砂は改良した上で鳴瀬川堤防のかさ上げに使われる。

 かさ上げと川底の掘削。河川の洪水対策は流せる水の量の確保が基本だ。東北地方整備局の担当者は「鳴瀬川と吉田川は『パートナー』の関係にある」と説明する。

 吉田川は河口まで約10キロの地点から鳴瀬川に寄り添うように流れ、河口の約800メートル手前で鳴瀬川に合流する。89キロの鳴瀬川には及ばないが53キロの全長があり、七つの支流が注ぎ込む吉田川は一つの水系のように広い流路を持つ。

 水害は歴史的に「吉田川水系」で目立つ。台風19号豪雨でも鳴瀬川に甚大な被害がなかったのに対し、吉田川では堤防決壊を含め氾濫が相次いだ。

 「流域は元々浅い沼地だった。氾濫しやすいのは偶然ではない」。鹿島台の土地改良区理事長の千葉栄さん(72)は、川の成り立ちを背景に指摘する。

 江戸時代初期までの流域は広大な湿地帯だった。当時の吉田川は東西約6.7キロの品井沼を介して鳴瀬川につながっていたとされる。沼は1693年、仙台藩による干拓が始まり、7キロ以上先の松島湾まで沼水を抜く人工の排水河川の整備が重ねられた結果、全国でも指折りの穀倉地帯へと変貌を遂げた。

 昭和期の1940年には沼と川を切り離し、川の下をくぐる水路で支流と一緒に沼の水を海に流すサイホン(伏せ越し)が完成。下流域で鳴瀬川に寄り添うように流れるのも、合流地点を河口付近までずらす背割(せわり)堤で二つの川の間を区切ったためだ。

 「美田と暮らしを守るための水との闘い」(千葉さん)は、吉田川を東北で類例がないほど人の手が加わった「人造河川」にした。それでも氾濫は続き、86年の8.5豪雨では4カ所が決壊。沼がよみがえったかのように流域は水没した。

 国は88年、中心部が10日以上浸水した鹿島台町(現大崎市鹿島台)を隣接の松島、大郷両町と共に全国唯一の「水害に強いまちづくり」モデル地区に指定。全長約6キロの道路兼用堤防「二線堤」の整備など先進的な事業が進められた。

 当時町長だった鹿野文永さん(84)は「水害の町に住み続けられるのかという危機感が原点だった」と振り返る。人知を尽くした取り組みにより、台風19号豪雨の被害も一定程度軽減された。

 二線堤が囲む鹿島台中心部は東日本大震災の被災者や若い世帯などが移住し、人口が増えている。行政区長の浅野功さん(70)は「(川からあふれる)外水への心配はなくなったが(排水できずにあふれた)内水が課題。吉田川が満水になれば処理し切れない」と次の水害を見据える。

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決壊 台風19号・治水のゆくえ

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