(1)電源喪失、絶望と悔悟の念

自宅の庭から福島第1原発の方角を見つめる名嘉。奥に福島第2原発が見える=富岡町

会社役員・名嘉幸照(79)=福島県富岡町

 黒い水の固まりがぶつかり、しぶきが高く上がる。

 福島県富岡町の会社役員名嘉(なか)幸照(79)は、福島第2原発タービン建屋を襲う津波を自宅の庭から見ていた。2011年3月11日午後3時20分を回った頃だ。

 とっさに、自宅から約7キロに位置する第1原発を案じた。会長を務める東電協力企業の東北エンタープライズ(福島県いわき市)が保守管理を担い、津波への脆弱(ぜいじゃく)さを十分知り尽くしている。

 当時勤務していた10人ほどの社員と電話がつながらない。急いで車を現地へ走らせる。途中で折り返しがあり、ベテラン社員が叫んだ。「海水ポンプ、全滅」。全身から力が抜けた。

 15メートル超の津波に対し、海水ポンプは海抜5メートル。原子炉を冷却するポンプが機能を失えば、核燃料の温度上昇を止められない。技術者として、行き着く先が容易に想像できた。

 非常用ディーゼル発電機も故障し、全交流電源を喪失した。原子炉の冷却機能は失われ、炉心は過熱。水蒸気が大量発生し、圧力が高まっていく。12日午後3時36分、1号機原子炉建屋が爆発した。

 避難先のテレビで見た名嘉は東電と国の幹部に電話で懇願した。「2、3号機の建屋最上階に穴を開けてくれ。爆発物を使ってもいいから」。もし格納容器が破壊されれば、半径300キロは人が住めなくなる。必死の思いだった。

 破壊は避けられたが、事態は刻々と悪化。3、4号機建屋も爆発し、当時運転中の1~3号機は炉心溶融(メルトダウン)に至る。

 無力さと絶望、罪悪感が胸を締め付ける。毛布をかぶり、肩を震わせた。

名嘉がまとめた福島第1原発稼働初期の事故記録

 沖縄県出身の名嘉は米ゼネラル・エレクトリックの主任保証技師として1973年に福島へ赴任し、第1原発1号機の稼働直後から品質保証を担当。80年に会社を創業し、半世紀近く第1原発に関わる。

 「原子力は日本の未来を開く夢のエネルギー」。希望を持って飛び込んだ世界は、すぐに色あせた。

 「事故は数え切れなかった」と名嘉は証言する。稼働初期の約10年間に東電と作成した資料に「放射性廃液漏えい事故」「制御棒駆動水圧ポンプ故障」など数十件のトラブルが克明に記録されている。

 80年代には津波対策として非常用ディーゼル発電機を高所に移すよう当時の第1原発所長に進言。それ以降も東電に繰り返し安全対策を求めた。

 電源さえあれば-。名嘉は「津波が来てもすぐに収束できたはず。事故は想定外ではない」と悔やむ。事故後、電源喪失の悪夢に何度もうなされた。

 事故によって90京ベクレルの放射性物質が放出され、政府の指示で避難した住民は約15万人。原発の安全に生涯を懸けながら、人々を苦しめ、地域を汚染させた。

 会社は今、第1原発の核燃料取り出しや汚染水処理に当たる。名嘉は「生きている間は逃げられない」と数十年に及ぶ廃炉作業に心血を注ぐ。

 将来、庭の木の下に謝罪文を刻んだ石を置こうと思っている。墓の代わりに。

 「原発と共生してきた自分が取り返しの付かない負の遺産を築いた。悔悟の念しかない」
(敬称略)

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から間もなく10年になる。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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