(3)車で線量監視、困難極める

解体された原子力センターから持ってきた看板を見詰める阿部=南相馬市の環境放射線センター

福島県職員・阿部幸雄(55)=南相馬市

 「えっ、間違いじゃないの?」。福島県職員の阿部幸雄(55)は2011年3月12日午前9時すぎ、無線による担当者の「毎時15マイクロシーベルト」の報告に耳を疑った。

 普段の150倍に相当する高い放射線量が検出されたのは浪江町酒井地区。東京電力福島第1原発から7キロも離れている。

 数字が事実なら格納容器から放射性物質が漏れ出ているかもしれない-。大熊町の県原子力センターに勤めていた阿部は、隣接する原発事故対応拠点の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)に急いで伝えた。

 第1原発から5キロの距離にあった原子力センターには職員約10人が勤務。技術系職員の阿部は、第1原発周辺の線量監視が主な仕事だった。

 巨大津波は原子力センターを窮地に陥らせた。モニタリングポスト24台のうち4台が流失。19台は停電のためデータを送信できなくなった。生き残ったのは原子力センター近くの1台だけだった。

 第1原発が全面的な緊急事態に陥ったと判断し、東電が原子力災害対策特別措置法15条に基づく通報を出せば、原子力センターは監視のさらなる強化を迫られることになる。

 「モニタリングポストが駄目なら人の力でも調べなければならない」

 12日午前5時、東電社員も含め10人ほどでモニタリング班を急きょ編成。3班に分かれ、車で10キロ圏を回った担当者から上がった報告が「15マイクロシーベルト」だった。

 午後3時36分、第1原発1号機の水素爆発に伴うごう音に驚いた阿部は屋上へ駆け上がる。第1原発の方角に白い煙が立ち上がっていた。「すぐ戻って」。無線でモニタリング班に呼び掛けた。

 モニタリング班は翌日以降も監視を続けたが、高い線量下では十分な成果を上げられなかった。計画した測定の1割も達成できない日もあった。避難車両の渋滞に巻き込まれたり、地震で道路に段差が生じたりしたことも響いた。

 原子力センターの撤退が決まったのは14日。線量データの報告先のオフサイトセンターが福島市へ移転することになったためだ。

 「まだ避難していない住民がいる。われわれが最前線に立っていなければならない」。阿部は現地での監視継続を主張したが、かなわなかった。

 たった3日間のモニタリング班だったが、課題は多かった。特に、12日の高線量のデータが公表されなかったことが悔やまれる。経済産業省がホームページに掲載したのは11年6月と遅れた。

 住民避難に必要な情報と思いデータを集めたが、役に立てなかった。その一方で「当時、住民には放射線の知識がなかった。公表していたら、混乱を招きかねなかったことも否定できない」とも思う。

 原子力センターは15年に廃止され、施設も解体された。一部業務を引き継ぐ県環境創造センター環境放射線センター(南相馬市)で次長を務める阿部は「福島のわれわれが得た教訓を全国のモニタリング担当者に伝えたい」と誓う。
(敬称略)

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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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