(5完)津波で団員犠牲、責任痛感

震災発生当時の団長として、消防団が果たした役割を振り返る紺野=浪江町内の自宅

元消防団長・紺野栄重(74)=福島県浪江町

 強烈な揺れがようやく収まったのもつかの間、大津波警報発令を伝える防災無線が鳴り響いた。

 高さ15.5メートルの津波が襲来した福島県浪江町。犠牲となった町民150人の中には町消防団の団員3人が含まれる。

 沿岸部の住民に高台避難を呼び掛けていた時、津波にのまれたとみられる理容業渡辺潤也=当時(36)=もその一人。

 町は毎年、津波対応の避難訓練を実施していた。請戸地区は大平山、棚塩地区は高台の棚塩霊園に逃げるのが決まり。

 「『彼の必死の呼び掛けに助けられた』という住民の証言もある」。当時の消防団長で町議会議長の紺野栄重(74)は「活動中だった仲間が尊い命を落としたことに責任の一端を感じている」と言う。

 2011年3月11日、町議会が開かれていた町役場庁舎の4階で揺れをやり過ごした。そのまま町の災害対策本部に加わり、団長の法被を羽織って各消防団を指揮した。

 団長の法被は傷みやすい襟元を縫い直し、代々引き継がれてきた。自分が知る限りでも30年は着られている。「歴代の顔を思い浮かべながら、町民の命と財産を守ると改めて誓った」

 「負傷者多数だが、人数は不明」「液状化で請戸港に入れない」「大津波が浜街道まで押し寄せている」

 数分おきに、次から次へと情報が飛び込んだ。混乱を極める本部では町長馬場有(18年死去)が指示を飛ばし、職員が駆け回った。

 午後7時3分、東京電力福島第1原発に原子力緊急事態宣言が発令された。約2時間後の9時23分、第1原発3キロ圏の住民にまず避難指示が出た。

 第1原発から町役場まで約8キロ。「あくまで『念のため』の避難指示なのだろう」。意識は翌日の行方不明者捜索に向かっていた。

 翌朝早く、町役場に着くと状況は一変していた。

 12日午前5時44分、避難指示が町役場を含む10キロ圏に拡大。防災無線が「町内から西の方に離れてください」と繰り返す。「大変なことになった」。紺野は各分団長に住民避難の誘導に当たるよう指示した。

 その日の午後に第1原発1号機が水素爆発し、災害対策本部は内陸の津島支所へと移転した。町民1000人以上の1次避難先が津島と隣にある川俣町に決まり、消防団の活動は食料の調達や炊き出し、野外トイレ設営などに移行した。

 活動が一段落したと実感できたのは、二本松市や猪苗代町への2次避難が終盤に入った16日ごろだった。

 「それぞれ避難先でも消防団員としての誇りを忘れず活動するように」

 紺野は団員にこう最後の指示を出し、馬場にも活動が一区切りを迎えたことを報告した。津島から次の避難所へと向かう町民の無事を祈りつつ、自分も家族と共に二本松に身を寄せた。

 5年5カ月の避難生活を振り返り、紺野は「地域がばらばらになり、かつての生活が恋しいと嘆いたこともあった。世話になった二本松への恩返しも含めて浪江の復興を前進させる」と話す。
(敬称略)

第1部は神田一道、関川洋平、斉藤隼人、吉田千夏が担当しました。

河北新報のメルマガ登録はこちら
原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

震災10年 復興再考

震災10年 あの日から

復興の歩み

企画特集

先頭に戻る