(2)ヘリから注水、未知の領域

福島第1原発事故の収束に向けた水投下作戦を振り返る加藤=群馬県榛東村の陸上自衛隊相馬原駐屯地

陸上自衛隊員・加藤憲司(48)=群馬県

 身に着ける装備が作戦の特殊さを物語った。

 重さ20キロの防護服と鉛入りベストに、視界を狭める防護マスクと指先の感覚を鈍らせる2重の手袋。この状態でヘリコプターを操縦し、原発に水を掛ける。まさに未知の領域だった。

 2011年3月17日午前8時56分。陸上自衛隊第1ヘリコプター団の大型輸送ヘリ2機が、仙台市若林区の陸自霞目駐屯地を飛び立った。3日前に水素爆発を起こした東京電力福島第1原発3号機を目指す。

 陸自第104飛行隊の隊長だった加藤憲司(48)は1番機に乗り込み、腹をくくった。「現状で何かできるのは、われわれだけだ」

 12日に1号機、14日に3号機、15日に4号機と、第1原発は原子炉建屋が相次いで水素爆発。原子炉の冷却と使用済み核燃料プールの水位の回復に一刻も早い注水が必要だった。

 しかし、高線量に阻まれて地上からの放水がなかなか進まない。そこで窮余の策として、特に水位が低いとみられる3号機にヘリで空から水を投下する作戦が立案された。

 前日に別隊が現地に飛んだが、上空の放射線量が高く断念。再挑戦の役目が加藤の隊に回ってきた。「正直『えっ』と思った」。1日待てば線量が下がるという保証はなかった。

 放射線を遮るシートを機内に敷き詰めたヘリは1時間弱で第1原発に到着。3号機の原子炉建屋は屋根が吹き飛び鉄骨がむき出しだったが、黒煙を吹き上げた爆発の瞬間を思えば「意外と原形を保っている」と感じた。

 当時、政府も東電も炉心溶融(メルトダウン)を認めていない。核燃料が刻々と溶け落ちているとは知るよしもなかった。

 被ばく量を抑えるため高度は前日の計画の3倍、原発上空90メートルほどに設定された。静止して行う予定だった水の投下も、水平移動しながらに変更された。訓練の時間はなく、ぶっつけ本番だった。

 原付きバイクほどの速度の20ノット弱で近づいた。「放水!」。機長が午前9時48分、分厚い防護マスク越しでも音声を拾えるよう口元に粘着テープで押し付けたマイクに、怒鳴り声で指示を飛ばした。

 2機で計4度投下した水はうまい具合に原子炉建屋にかかったようにも、折からの強風で流されたようにも見えた。2回目、3回目がある前提の出動だったため、初日の成否にそれほどこだわっていなかった。

 だが、次はなかった。初回出動後、当時の北沢俊美防衛相が「今日が限度」と発言。「キリン」などと呼ばれたコンクリートポンプ車による安定的な注水に道筋がついた20日ごろ、加藤は「もう水の投下はなさそうだ」と思った。

 講じられた幾つかの対策のおかげで、隊員らの健康に影響はなかった。自分の被ばく量は「エックス線検査3回分」と聞いたことしか覚えていない。

 事故から9年半。原発上空の放射線量や隊員の被ばく量の正式な記録は第1ヘリ団にも第104飛行隊にも残っていない。
(敬称略)

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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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