第2部(4)現地の声を要求の「弾」に

復興庁の意義を語る浜辺。福島復興局の業務は原発事故の特殊性から岩手、宮城と大きく異なっていたという=東京都内

◎福島復興局初代次長・浜辺哲也(56)=千葉県

 わずか5人でのスタートだった。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から3カ月後の2011年6月。福島県の対策本部が置かれた県自治会館の一角に政府の復興対策本部の現地担当者が集まった。

 政府は同月成立の復興基本法で、復興の司令塔となる「復興庁」の早期設置を規定。岩手、宮城、福島の被災3県に下部組織の復興局を置く方針も掲げた。経済産業省から送り込まれた浜辺哲也(56)=日本政策金融公庫専務=ら5人は、その「先遣部隊」と位置付けられた。

 地震と津波による被害の全容が判明しつつあった岩手、宮城と異なり、福島は原子力災害がまさに進行中だった。「この5人で何ができるか」。浜辺はひるむ気持ちを抑え、被災自治体の現状把握に動きだす。

 内閣府の被災者生活支援チームなどと合同で住民説明会を連日開催。避難、除染、賠償などを巡って質問が相次ぎ、やりとりは2時間にも3時間にも及んだ。

 「役人流の逃げの答弁は許されなかった。充満した怒りを受け止めつつ、情報を伝えるのが仕事だった」

 12年2月に復興庁と3県の復興局が発足し、浜辺は福島復興局の初代次長に就く。その後も説明会出席は続き、13年6月の離任までに100回を超えた。厳しい言葉を浴びる役回りだったが、そこで得た情報は省庁横断で復興施策を進める原動力となった。

 「『査定庁』とも呼ばれたが、復興庁はむしろ要求官庁だと思う。財務省から予算を引っ張り、各省庁に制度の特例を作らせる。説明会でかき集めた現地の生の声が、霞が関に投げつける要求の『弾』になった」

 当時、避難区域の住民から「せめて先祖の墓参りを可能にしてほしい」との要望が相次いだ。住民の気持ちをつなぎ留めたい被災自治体からも同様の意見が寄せられたが、実現には省庁の縦割りが障壁となった。

 安全に墓参りするにはまず墓石や敷地を除染し、倒れた墓石を建て直す必要もあった。だが除染を所管する環境省は「墓石の移動などは担当外」と原則論にこだわり、作業期間が不必要に延びる恐れがあった。

 浜辺らは避難区域の墓地を回って倒れた墓石の数などを調べた上で、除染から建て直しまでを包含した新しい補助金の仕組みをつくった。「制度を組み立てるのは東京の本庁だが、それを現地から指示するような気持ちだった」

 発足初年度の福島復興局にとって、最大の仕事は避難指示が出た県内12市町村の避難解除までのタイムスケジュール作成だった。地区単位の放射線量を踏まえいつまでに除染を終え、インフラを復旧させ、学校や病院や交通網を再開させるか青写真を描いた。

 「初年度で一通りのスケジュールは引き終わっていた」と浜辺。市町村はスケジュールに基づき、それぞれ復興計画を策定していった。その後、避難解除などは「1年ぐらいの誤差はあったが、ほぼその通りに進んだ」という。

 復興庁は当初20年度までだった設置期限が10年延長された。浜辺は「政策資源をワンストップで集中投入する意味は大きい。『福島の復興なくして日本の再生なし』との国のコミットメント(約束)を組織として示す役割もある」と語る。
(敬称略)

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