「復興再考」第6部 まちづくり(6) 山元 置き去り/寂れる沿岸部に声届かず

避難道路の環状交差点を造る復興工事が10月にスタートしたJR常磐線旧山下駅の周辺=3日、山元町

 住居が消えた空き地に雑草が茂る。重機や大型トラックが忙しく動き回る。
 「これが震災10年を迎える復興の姿なのか」
 宮城県山元町花釜地区のJR常磐線旧山下駅前で食料品店「橋元商店」を営む橋元伸一さん(59)の言葉に、憤りと諦めが交じる。
 あの日、津波は平屋店舗の天井まで押し寄せた。4カ月後に再開した店舗はその後、避難道路の区域にかかった。新たな土地を向かいの駅跡に求め、80センチかさ上げした。年明け、ようやく地鎮祭が行われる。
 町最大の1023世帯があった花釜地区は津波で大きな被害を受け、現在466世帯に半減した。地区の中央を南北に走っていた常磐線は最大で1・1キロ内陸に移設された。
 「かつての駅前が今や町の端っこ。それでも、ここで店を続ける」。橋元さんは意地にも似た決意をにじませる。
 沿岸部は町が進める大胆なコンパクトシティー構想に揺れ続けた。町は2011年11月、町域の30%を災害危険区域(津波防災区域)に設定し、津波で浸水した深さに応じ第1~3種に区分した。

 第1種(津波浸水深3メートル以上)は居住用建物の建築が禁じられ、第2種(2~3メートル)と第3種(1~2メートル)はかさ上げなどの条件付きで建築が可能となった。区域ごとに宅地買い取りの有無や現地再建支援策で格差が生じ、旧常磐線などを境に地域が分断された。
 現地に残る道を選んだ被災者は連日、3種区域になった橋元商店に集まった。新駅周辺など3カ所への集約化に不満を抱き、古里再生の絵図を語り合った。
 「町の進め方は強引で聞く耳を持たなかった。届かぬ声を届けたい」。橋元さんは15年、町議に立候補。現在、2期目を務める。
 広大な災害危険区域を設けた町は、集約先で自宅を再建する被災者に最大約1200万円の援助を用意。他地域での再建組と差をつけ、誘導を図った。
 磯浜漁港がある磯地区の区長だった星新一さん(72)は「共同体を維持したい」と集落内での集団移転を模索した。国は震災特例で5戸以上で認めるとしたが、町は独自に「50戸程度」という厳しい条件を課した。
 斎藤俊夫町長(71)は「高齢世帯が十数世帯集まっても、将来、地域として持ちこたえられるだろうか。一定の規模感は必要だ」と集約化の方針を堅持した。
 集団移転を希望した磯地区の27世帯は一つまた一つと抜け、構想は頓挫。星さんも仙台に通勤する家族の事情から名取市に移った。

 海岸に近い中浜地区は震災前の314世帯が27世帯に激減した。「人のいない土地はとにかく荒れる」と区長の島田敏光さん(66)。年2回、自治会で草刈りしてもカバーしきれない。
 復興事業で大型トラックが行き来して傷んだ道路の整備も気掛かりだ。島田さんは11月30日、行政懇談会で道路の早期改修を求めたが、町側は「通行量を見ながら町全体で優先順位を付けたい」と回答するにとどまった。
 「復興まちづくりは最終ステージを迎えている」
 町の重心が内陸に移った今、町の言い分に沿岸部の住民は疎外感を募らせる。

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