まちづくり(5)山元 集約化・下/インフラ生かす大改造

コンパクトシティー構想に基づく復興計画を住民に説明する斎藤町長=2012年5月、山元町

 「よりコンパクトで都市計画を重視した復興を目指したい」

 東日本大震災発生から3カ月後の2011年6月19日。宮城県山元町の斎藤俊夫町長(71)が町震災復興有識者会議の初会合の冒頭、復興まちづくりの方向性を切り出した。

 住宅や公共施設を集約し、インフラの維持コストを抑えながら利便性を向上させる-。元県職員で地域計画に精通。コンパクトシティーの発想は震災前から頭の中にあった。

 震災前の人口は1万6700。南北12キロ、東西6キロの長方形の町全体に住宅がスプロール化(虫食い状)して散在し、JR常磐線の駅が二つあるのに「まちの顔」がないのが長年の悩みだった。

 仙台駅からJR常磐線で40分の好立地。1980年代以降、仙台のベッドタウンとしてミニ開発が進んだ。非効率な上下水道や狭い道路が広がり、土木経費の大半がインフラの維持補修に消えた。津波で旧山下、旧坂元の両駅が被災し、沿線に張り付いていた家々は押し流された。

 <JR常磐線のルートを山側に移転>
 <国道6号以西への新たな住宅形成を促す>
 発災直後の4月、宮城県は「おせっかいプラン」と称し、被災自治体の復興計画のたたき台を作成。震災を機に地域構造を大胆に造り替えたい斎藤町長の思いと一致し、街の集約化方針の動機付けとなった。

 「元々の暮らしの独自性は大切」「居住地の選択肢を増やすべきだ」-。有識者会議で委員から慎重意見も出たが、11年12月に復興計画策定にこぎ着けた。

 平野部が広がる町は町域の4割に当たる2400ヘクタールが浸水し、犠牲者は637人に上った。斎藤町長は「国、県に言われなくとも、命最優先のまちづくりは絶対だ」と繰り返し、鉄路と一体となった新市街地の形成を強力に推し進めた。

 「相当ラジカル(急進的)だなという印象だった」

 有識者会議で座長を務めた県建築住宅センター元理事長の三部佳英さん(71)は、住まいの集約方針に賛同しつつも驚いた。集団移転先を山下、坂元両駅周辺と国立病院機構宮城病院近くの内陸3カ所に限定したからだ。

 常磐線の内陸移設も綱引きがあった。「人口流出を招く」。仙台方面から旧山下駅までの早期の現地復旧を望む住民が猛反発。町は一部区間で国道6号西側へ大きく迂回(うかい)する絵を描いたが、最終的に国道の東側を通るルートで決着した。

 「鉄道、国道、常磐自動車道の三つの交通インフラがある町なのにそれぞれ離れていて、ポテンシャルを生かせていなかった」。12年度末まで2年半、県から出向した元副町長の平間英博さん(63)も都市の構造転換で人の流れが変わると確信した。

 震災5年7カ月後の16年10月、JRの山下、坂元両駅に直結する町内2カ所の市街地がオープンし「まちの顔」ができた。人口減少のカーブは緩やかになり、近年は1万2000台を維持。子育て世帯など転入が転出を上回る「社会増」の傾向にある。

 大改造は時に「独断専行」と批判を浴び、町長は議会から問責決議も受けた。「本当の意味での評価は後世に委ねるしかない」。斎藤町長は覚悟を口にする。

内陸に移転した山元町のJR常磐線。駅を核に新しいまちが形成されている=3日、JR坂元駅周辺

[山元町の津波防災区域(災害危険区域)]町の面積の30%に相当する約1900ヘクタールを指定し、津波が浸水した深さに応じて区域を三つに分けた。海岸に近接する第1種(津波浸水深3メートル以上)は居住用建物の建築が禁止され、第2種(2~3メートル)と第3種(1~2メートル)は一定基準を満たせば建築が可能。1種と2種区域は防災集団移転促進事業による宅地買い取りなどの支援制度を適用した。

河北新報のメルマガ登録はこちら
震災10年 復興再考

 東日本大震災は命、暮らし、教育、社会の在りようを根底から問い直した。私たちが目指した「復興」とは何だったのか。政府の復興期間の節目となる震災10年に向け、その意味を考えたい。

震災10年 復興再考

震災10年 あの日から

復興の歩み

企画特集

先頭に戻る