(1)帰宅困難区域の土地、「負の遺産」に

会津若松市の自宅で、大熊町を題材にしたかるたを眺める浅野。昔の故郷に思いを寄せる

福島県大熊町民 浅野孝(68)=福島県会津若松市

 10年の歳月は望郷の念を不安、疑念、怒り、諦め、焦燥へと駆り立てた。福島県大熊町から会津若松市に避難する浅野孝(68)は、ただ待つだけのむなしさを拭えずにいる。

 東京電力福島第1原発事故から9カ月後の2011年12月、自宅のある大熊町熊地区は帰還困難区域に再編された。避難先の会津若松市。自力で探した6畳2間のアパートに妻、母、長男の嫁、孫の5人暮らしを始めた頃だった。「帰れない状況が10年も続くとは思っていなかった」

 帰還困難区域は現在、22年春の避難指示解除を目指し国が除染とインフラ整備を行う特定復興再生拠点区域(復興拠点)、除染廃棄物を一時保管する中間貯蔵施設用地、それ以外の地区の三つに分かれている。

 復興拠点でも中間貯蔵施設用地でもない地区は、地元で「白地地区」と呼ばれるようになった。除染実施や避難解除の時期など国の方針が示されていない地区だからだ。浅野の自宅は、その白地地区にある。

 会社勤務の傍ら、田んぼでコメを作った。畑では自家用の野菜を栽培。山に植林し、手入れも欠かさなかった。「大熊のナシやキウイもうまかったなあ」

 いつかは大熊に戻ろうと当初は年に2度ほど自宅に足を運んだ。許可を得て帰還困難区域内に入り、墓参や家の片付けをした。ある時のことだ。自宅の押し入れを開けると、ネズミがいた。一瞬にして、家財を持ち帰る気がうせた。

 以来、滞在時間は徐々に短くなった。ネズミのほかにイノシシも現れ、家屋も庭も田畑も荒れ放題。「雑木林になるのも時間の問題だ」。朽ち果てていく自宅を見るのがつらい。住める見込みがないなら解体しようと業者に依頼したが「そこは避難指示が解除されていないから」と断られた。

 「白地地区の町民には町に戻る選択肢すらない。何年後に除染して、何年後にはこうなると国は方向性を示してほしい。めどがないと将来を決められず、どうしようもない」

 町は国に対し再三要望している。国は「長い年月がかかろうとも帰れる環境をつくる」と帰還困難区域全域の避難解除の方針を強調するが、具体的なスケジュールを示さないまま丸10年を迎えようとしている。

 時の経過は新たな懸念を生む。避難解除されても土地を所有していれば、いずれ税金がかかる。「処分しようにも処分できない『負の遺産』になっては子や孫に迷惑を掛ける」。そう思うようになった。

 大熊の自宅敷地内には長男一家が新居を構える予定だった。工事が始まる直前に原発事故は起きた。会津若松市に13年に建てた自宅の隣に、ほぼ同時期に長男が新居を構えた。孫子に囲まれ穏やかに暮らすささやかな夢は図らずも避難先でかなう。

 ただ、大熊に戻る意思のない長男家族は会津若松市民。自分たちは大熊町民のまま会津若松で暮らす。所在なく宙に浮くアイデンティティー。「どうしてこんな思いをしないといけないんだ」。家を建てても心の居場所は定まらない。
(敬称略)

 住民でさえ許可なしに立ち入りできない帰還困難区域が設定されたのは、未曽有の過酷事故から9カ月後のことだった。県沖での試験操業開始、生活圏の本格除染など、今なお渦中にある被災地の課題、そして被災者の葛藤が次々に顕在化したのもこの頃だった。

大熊町の自宅の航空写真。2階建ての母屋と倉庫があった。自宅裏の田んぼでコメを作った=2009年11月ごろ(浅野氏提供)
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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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