「震災10年 あしたを語る」元宮城県警本部長 竹内直人さん(63) 遺体安置場所 知事に直談判

竹内直人さん
広島県警の応援部隊と共に行方不明者を捜索する竹内さん(中央)=2011年4月2日、宮城県女川町
宮城県警が2011年3月11日夜、報道機関に参考情報として出した資料

 前例のない大災害に見舞われた時ほど、トップの判断が組織の命運を左右する。大地震、巨大津波、原発事故…。東日本大震災から間もなく10年。住民のため、地域のため、困難に立ち向かった6人のリーダーが複雑な胸中を語る。

 <宮城県議会2月定例会の主な日程が終わり、翌週は人事異動で県警の2011年度体制が始動という状況の中、あの日を迎えた>
 あまりの揺れの大きさに驚いた。本部長室の机のそばの柱につかまるようにして、揺れが収まるのを待った。まず県警の態勢をしっかり整えようと考えた。
 想像をはるかに超えた被害だった。南三陸署はほぼ水没、気仙沼、塩釜両署も機能しない。現場からの無線、県警や報道各社のヘリからの映像などで続々と入る情報に、ぼうぜんとした。気仙沼が火の海になった映像はこの世の地獄だと感じた。ただ、指揮を執る本部長がうろたえてはいけない。そう言い聞かせた。
 <深刻な事態が明らかになってきた3月11日深夜、県警幹部に指示を出す>
 未曽有の大災害だが、県民のためにやれることは全てやる姿勢で臨む。長期戦を覚悟する。全職員のチームワークが鍵だ。この三つを訴えた。後日、浸水した最前線で体を張っている職員も読めるよう、ラミネート加工した文書を配った。

 <県民のためにやれることをやる-。自らも実行した>
 不明者の捜索とともに、収容した遺体の検視を円滑に進めなければいけなかった。遺体を安置する広大な施設が必要。村井嘉浩知事に直接、「利府町の県総合体育館(グランディ21)を使わせてほしい」とお願いした。
 知事には一対一で会う時間をちょくちょく取ってもらった。県の会議で話しにくい内容などを、会議後に知事室に寄って話すこともあった。電話でも頻繁にやりとりした。
 <村井知事は県の災害対策本部会議を報道機関に全面公開した。県警も情報を積極的に発信する>
 テレビカメラが回り、記者が居並ぶ中で会議が始まったのでびっくりした。でも、あれだけの大災害。入ってきた情報を県民にも関係機関にも早く届けることが重要になる。知事の考えは正しい。
 震災3日目に「遺体が万人単位に及ぶのは必至」と発言したのは、数字を強調したかったのではない。あらゆる物資が足りない中、県警の要望を実現するにはどうするか。平時のように警察庁を通じてお願いする余裕はなかったので、副大臣もいる会議で言及した。
 率直に言ったつもりだったが、反響の大きさに驚いた。見出しになるという意識はなく、気にする余裕はなかった。やれることをやるための発言だった。

 <安否不明者情報を県警が受け付け、ホームページで公表するという異例の取り組みもした>
 捜索に加え、遺体の検視と身元特定、遺族への引き渡しが県警の業務の柱になる。津波被害なので、発見場所と住んでいた地域が異なることが予想できた。とにかく手掛かりが必要だった。やってよかった。
 災害時の安否不明者情報をどこが扱うか、全国知事会などを含め議論になっている。自治体が国に基準づくりを求めるのは、「どうして公表したのか」との苦情の矢面に立ちたくないからだろう。しかし、何が住民のためになるかの原点に立てば、公表に消極的な議論に違和感がある。

殉職14人 痛恨の出来事

 <全国に衝撃を与えた「仙台市若林区荒浜で200~300の遺体を確認」の情報は、結果として誤りだった>
 警察無線は系統が複数あり、電話でも情報が入る。それをメモする流れで、どうしても伝言ゲームのようになる。荒浜の情報は公表するかどうか、かなり悩んだ。「これは現場からの情報かもう一度確認を」と指示した。その結果、現場からの連絡とのことだったので、「じゃあ言わなきゃいけない」と決断した。
 誤報は出したくない。なるべく正確に出すよう努める。でも、確認しない限りは発信できない、というのは違うのではないか。大規模災害時は、知り得た情報を広報する義務がある。
 <宮城県沖地震が30年以内に99%の確率で起きる、とされる状況で東日本大震災に遭遇した>
 県警の備えが十分だったとは言えないだろう。警察署が津波で被災してはいけないのに、気仙沼、塩釜両署は津波浸水想定エリアにあった。津波から住民を避難誘導する警察官用のライフジャケットも、浸水域で救助活動をするためのゴムボートもなかった。
 震災後、それらを配備し、ガソリンや食料の備蓄もするようになった。震災の教訓を生かした形だが、逆に言えば準備が足りていなかった。

 <県警では14人が殉職した>
 痛恨の極みだ。最前線にいた署員にどこかのタイミングで一斉撤退を指示できたのではないか、という思いは今も抱き続けている。講演などでも話している。
 被災者となった職員も多く、報告を受けるたびに落ち込んだ。駐在所勤務員の家族も4人が亡くなった。同居をお願いしている立場としてざんきに堪えない。
 <多くの人材を失ったことを顧み、警察官も命を守ることの大切さを説く>
 優秀で使命感が強い警察官は前へ前へと行ってしまう。ある警察官は「撤退を命じられても住民がいたら避難できなかっただろう」と語った。使命感は本当にありがたいが、そういう職員がいるからこそ撤退を指示する必要がある。
 死んだら何もできない。大災害は長期戦。救助、捜索、検視、被災地のパトロールや困りごと相談、ありとあらゆる仕事が警察には待っている。
 <3月24日、発生から初めて県警本部を離れ、宮城野区蒲生の被災地や遺体安置所となった利府町の県総合体育館(グランディ21)を視察した>
 今でもあの光景がまぶたに浮かぶ。膨大な遺体が安置されている情景を目の当たりにし、大変な事態が進行中だと認識した。検視に足りないものがないか冷静に視察するよう努めたが、小学生くらいの子どもの検視は正視できなかった。
 <このころから被災地の治安対策と広報活動に力を入れる。泥棒などのうわさが広まっていることを懸念したという>
 泥棒を警戒する気持ちも分かるが、実態以上に被害を強調するうわさが流れると、過剰なリアクションが起きる。それが怖い。真っ暗な中、懐中電灯で見守る行為も体感治安を悪くする。「警察が一生懸命パトロールをするので、落ち着いて行動してください」と訴える必要性を感じた。
 結局、こちらが正確な情報を発信し続けるしかないと痛感した。その後の熊本地震などでもデマ情報が流れた。災害時は広報が非常に重要になる。

 <県警挙げての長期戦となった震災対応には反省点も多いという>
 家族や親、きょうだいの安否が分からない職員にも任務遂行をお願いせざるを得ず、本当に申し訳なかった。鼓舞するために「県民はもっとつらい。こういうときこそ踏ん張るのが警察だ」と言い続けたが、もう少しやりようがあったかもしれない。
 神奈川県警から派遣された医師に、職員のカウンセリングをしてもらったら、燃え尽き症候群を指摘された。「頑張れ、頑張れ」と言うだけで、メンタルケアの意識がなかった。
 全国の警察が応援に来てくれた。応援をもらっている側は休めない、という意識をどうしても持ってしまう。でも警察庁の片桐裕・次長から「休むのも仕事だ」と諭された。長期戦を覚悟せよと言いながら、長丁場をどう乗り切るかの視点が抜け落ちていた。

震災教訓伝承、 私の使命

 <震災発生から7カ月後、警察庁外事情報部長に異動となるが、13年6月に東北管区警察局長として再び被災地で勤務する>
 福島の被災地を視察し、岩手や宮城とは様相が異なると感じた。がれきが散乱したままになっていて、全く次元の違う災害が今なお進行中だと胸が痛んだ。住民が元の場所に戻れるよう警察ができることをしっかりやろう、と心に刻んだ。
 <未曽有の震災対応を指揮した者として、「警察謝恩伝道士」を名乗り、経験を語り継ぎ、将来へ備える必要性を強く説く>
 過去の南海トラフ地震や関東大震災など、日本の長い歴史を振り返ると大規模災害が繰り返し起きている。首都直下地震などの発生予想もある。1年後か10年後か100年後か分からないが、可能性がゼロでない以上、大災害は起こる。全ての準備を一気にすることはできないが、少しでも準備を積み上げるしかない。
 東日本大震災で準備の必要性を痛感した。教訓を語り継いでいくことは、当時の警察幹部だった私の義務だと考えている。呼ばれれば出掛けて行って話すようにしている。

 <震災から10年となり、風化が進んでいることにも危機感を持つ>
 確かに沿岸部に行けば街の様子は変容しているし、インフラも復興している。でも身内を亡くした人の悲しみは10年たっても消えない。「10年の節目で整理しました、教訓もまとめました」で終わりというものではない。
 あれだけの数の人が亡くなっており、未曽有の災害だったことは間違いない。いつかまた甚大な災害は起きる。このことを社会全体で忘れないでほしい。
(聞き手は末永智弘)

[たけうち・なおと]1957年、福井市生まれ。東大卒。81年警察庁入り。2003~04年青森県警本部長、09年10月~11年10月宮城県警本部長、13~14年東北管区警察局長。15年退官後、全国で震災の経験と教訓の語り部活動を展開。

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