「震災10年 あしたを語る」前東松島市長 阿部秀保さん(65) 被災者に配慮 初動対応重視

阿部秀保さん
東松島市の防災集団移転団地「野蒜ケ丘団地」の造成現場を視察した安倍晋三首相(当時、手前左)に説明する阿部市長(同右)=2013年5月

 前例のない大災害に見舞われた時ほど、トップの判断が組織の命運を左右する。大地震、巨大津波、原発事故…。東日本大震災から間もなく10年。住民のため、地域のため、困難に立ち向かった6人のリーダーが複雑な胸中を語る。

 <東日本大震災の発生時、東松島市長として初動対応の指揮を執った>
 市議会2月定例会の最終日で、退職予定の職員があいさつする直前に揺れた。揺れの時間は3分くらいだろうが、5、6分にも感じた。宮城県沖地震が来たと思った。家屋の倒壊がかなりあると考え、外を見るのが怖かった。
 すぐ庁舎内の会議室を対策本部にした。2009年度、防災対策で非常用電源を使えるように改修した部屋だった。約1時間後、石巻市の雄勝地区と北上地区が津波で壊滅的な被害を受けたと消防無線で聞いた。東松島市の大曲浜、牛網、浜市、野蒜、宮戸も大きな被害が出るなと覚悟を決めた。実際、そういう結果になってしまった。

 <3月11日の夕方から17日間、市の防災無線で自ら市民に情報を伝え続けた>
 04年の台風23号で広範囲が浸水した兵庫県豊岡市の話が頭にあった。家屋などに取り残された住民が「自衛隊が救助に向かいます」と呼び掛けた市長の言葉を信じて待ったという。市長の言葉は重い。マイクを握るのはここだと思った。対策本部に入る情報を整理して自分で文章を書き、簡潔に伝えた。やめた時は「何だ、寂しいな」と言う人もいた。
 いい話だけじゃなかった。避難所に食料がなく、ミルクや燃料と合わせて物資の提供を呼び掛けたら「そんなのあるわけねえべ」と非難を浴びた。その後、内陸部から食料が届いた。市全体の被害が同じではないから、批判を覚悟で言わなければならなかった。

 <東松島市には最大浸水高10・35メートルの津波が押し寄せ、市街地の約65%が浸水した。関連死を含め市民1109人が亡くなり、24人が行方不明のままだ>
 発生翌日、市民体育館に100人前後のご遺体が運ばれた。知っている方もいた。ご遺体を見た時、もう市長をやめなきゃいけないなと思った。自分では防災に力を入れてきた。震災前の自主防災組織の組織率は100%。宮城県内で一番という自負があった。それが自主防災組織のリーダーまで失った。ショックだった。くじけては駄目だと自分に言い聞かせたが、内心はもう責任を取らないといけないと考えた。
 3日目の午後、自衛隊のヘリコプターに乗って市内の状況を上空から確認した。家々が流された沿岸部を見て涙が出た。建物被害は3000戸に上ると想定した。民間借り上げなどみなしを含め仮設住宅を必要としたのは2800世帯近くだった。被害状況の把握は重要だと感じた。
 対策本部では遺族、自宅を失った被災者、子どもに特に配慮するよう職員に言い続けた。自分が被災者だったらどうしてほしいかを考えながら、ご遺体の捜索や埋葬などに丁寧に対応してほしいと伝えた。
 初動と応急対応がうまくいかず、住民が不満を抱えたままであれば復旧も進まなくなる。復興の土台になる意味でもとにかく初動対応を大切にした。

「地域内分権」復興の力に

 <東松島市では住民が避難所の運営を担った。最大約800人の被災者を雇用し、大量に発生したがれきを細かく分別してリサイクルし、処理単価を抑えた>
 住民はリーダーや役割分担を決めて自ら避難所を運営した。がれきの分別は復興の役に立ちたいと誇りを持って処理した。2005年の合併を機に震災前から進んでいた住民自治が大きく機能した。
 00年4月に地方分権一括法が施行され「平成の大合併」の動きが始まった。当時、矢本町議会議長だった私は自問自答した。合併後のまちづくりの望ましい姿とは何か。国は地方分権と言っているが、私たちは住民に何を「分権」できるのか。
 行き着いた結論は「地域内分権」だった。行政が小学校区単位で設置運営していた公民館を市民センターに衣替えする。指定管理者制度を導入し、職員の代わりに地域住民に運営してもらう。合併の欠点は行政がスリムになり、きめ細かな住民サービスが低下すること。市民センターを拠点とし、地域のことは地域で決めるまちづくりが望ましいと考えた。
 05年に市長になり、公民館制度の廃止に着手したが、市役所内で反対意見があった。私は将来の宮城県沖地震に備える必要があり、センターを自主防災組織の活動拠点にしてもらうと職員に伝えた。不審者の見回りなどの防犯活動も必要で、何でも市役所ができる時代ではないと話した。
 住民説明会を計424回開き、市民に理解を求めた。09年4月に公民館を市民センター、公民館分館を地区センターに変更した。初年度の行事の参加者数や施設の利用回数が昨年度から倍増した。弾力的な地域づくりの取り組みを始めた2年後に震災が起きた。

 <住民自治は住宅再建事業でも発揮された。防災集団移転促進事業では被災者自らが移転先を決定。宅地造成や災害公営住宅の建設も計画より早く進み、東松島市は「復興のトップランナー」と言われた>
 七つの集団移転先全てを被災者が「あの地域に移転したい」と決めた。被災者が望む場所を責任を持って地権者と買収交渉するのが私の仕事だと最初から考えていた。地権者は「被災者の力になりたい」と協力してくれた。用地買収はほとんどがスムーズにいったと言っても過言ではない。
 被災状況は自治体ごとに違うのでトップランナーという言葉には違和感がある。東松島市は03年の宮城県連続地震の経験を教訓にした。死者は出なかったが、建物被害は1978年の宮城県沖地震より大きかった。
 激甚災害法、災害救助法、被災者生活再建支援法と災害対応に必要な法律を私を含む幹部職員が連続地震で経験した。がれきを分別せずに処理をしたら費用が見込みより4億円も増えた。100戸以上建てた仮設住宅では1割の方々がなかなか退去できず、災害公営住宅の必要性を痛感した。私たちは失敗から学んだ。2回目だからできた。

 <2013年4月の市長選に立候補し、3選された>
 出馬するかどうかはずいぶんと悩んだ。初めて市長になった時、3期はできっこなく、そういう時代ではないと思っていた。2期8年しっかり仕事すると決めていたし、震災であれだけの人が亡くなった。道義的な責任があり、私の顔を見たくない人もいるだろう。けじめをつけてやめるしかないと思っていた。
 態度を明らかにしなかった時、宮戸地区の住民らから「市長、逃げるのか。俺たちを見捨てるのか」と言われた。叱咤(しった)激励を頂き、背中を押してもらった。2期目の延長戦ということで気持ちを整理し、立候補した。
 <3期目では、災害公営住宅団地内の太陽光パネルで発電した電力を災害時の停電の際、住宅や公共施設に供給する国内初の事業「スマート防災エコタウン」を進めた>
 電源の確保は命に関わると震災で学んだ。震災直後、市内二つの病院のトップの方が来て「このままでは人工透析をしている患者が死んでしまう」と言われた。透析には電気と水が必要だが、両方ともなかった。東北電力に電源車を配置してもらい、水は石巻地方広域水道企業団からポンプ車で優先的に運んでもらった。非常時には自立分散型の電源が必要だと痛感した。

住宅支援 柔軟な制度を

 <震災では巨額の復興予算が投入された>
 復興に関しては全て協議が必要で、私たちが自由に使えるお金が一銭もなかった。初動、応急対応では首長の裁量で使える財源があれば早くできる。例えば被災者の住環境整備。プレハブ仮設住宅は入居すればわが家と比べて満足感がすぐなくなる。だから民間借り上げなどのみなし仮設や災害公営住宅の早期整備が課題になる。
 1戸当たりの建設に700万円以上かけ、いずれ壊すプレハブ仮設はもったいないとの意見がある。プレハブ仮設がいいのか、最初から災害公営住宅に近い建物がいいのか、被災自治体が自ら選べる仕組みを検討する余地はある。南海トラフ巨大地震が起きると言われているが、災害時の住環境支援について根本から研究する価値がある。

 <震災から10年になる>
 被災者はそれぞれ環境が違う。心の復興にはまだ時間が必要だ。行政も地域も被災者に寄り添って取り組まないといけない。
 震災前はさまざまな防災訓練をしたが、1100人以上の市民の命を失った。自然災害には上限がなく、防災を考える上で「これでいい」ということはない。国や自治体は震災の発災から復興までの対応を検証し、改善して今後の減災に生かしてほしい。
 東松島市は連続地震、震災と続けて被災し、防災に関する経験値がある。世界中から物心両面で大きな支援を頂いたことには感謝しかない。恩返しの意味でも、東松島はこの経験を世界に発信する使命がある。
(聞き手は氏家清志)

[あべ・ひでお]1955年、東松島市生まれ。中央大卒。87年旧矢本町議に初当選し、連続5期。99年から議長。2005年の矢本、鳴瀬両町合併による市長選で初当選し、3期務めた。

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