「震災10年 あしたを語る」三陸鉄道前社長 望月正彦さん(68) 鉄路は不可欠 即時再開決断

望月正彦さん
車両内の対策本部で情報収集する望月さん(左)=2011年3月12日、宮古市(三鉄提供)

 前例のない大災害に見舞われた時ほど、トップの判断が組織の命運を左右する。大地震、巨大津波、原発事故…。東日本大震災から間もなく10年。住民のため、地域のため、困難に立ち向かった6人のリーダーが複雑な胸中を語る。

 <東日本大震災の大津波は、岩手県沿岸部を通る第三セクター三陸鉄道を襲った>
 宮古駅に併設する宮古本社にいた。午後3時半すぎ、外が「津波が来た」と騒がしくなった。私は近くの陸橋「出逢(であ)い橋」に上がった。津波は駅前ロータリーで止まったが、約300メートル先で車がひっくり返り、漁船が乗り上げていた。
 午後6時ごろに戻り、宮古駅にあった車両1両を対策本部にした。ディーゼルカーだからエンジンをかければ明かりも暖房も手に入った。万が一を考えて2010年8月に導入した災害時優先電話が役立ち、情報収集は意外と早かった。

 <13日午前、社有車を自ら運転して宮古駅から普代駅まで向かい、一駅ずつ被害を確認した。田老駅の北側線路上には家屋の屋根が乗り、島越駅周辺は1戸を残し約120戸がなくなっていた>
 震災発生から「これからも三鉄は必要なのか」と考え続けた。赤字続きで、岩手県庁内にも「この際、三鉄をつぶしてしまえ」という声があったほど、やっかいな荷物扱いだった。
 県職員時代、東北新幹線の八戸延伸に伴う在来線対策を担い、赤字ローカル線が次々と消えた北海道を研究した際の思いがよみがえった。「鉄道が廃止されて栄えたまちはない」と。
 13日夕、本社に戻り、運行本部長らに「即、動かせるところは動かす」と指示した。「無理です」と反論された。「ここで動かすかどうかは三鉄の存在意義に関わる」「動かさなければ明日から失業だ」と迫ると、みんな分かってくれた。

 <震災発生5日後の16日、旧北リアス線(宮古-久慈)の陸中野田-久慈間が1日3往復で運行を再開。宮古-田老間は20日、田老-小本間は29日に運行し、全体の3分の1が3月中に再開できた>
 陸中野田-久慈間はほとんど被害がなく、運行可能だと15日に分かった。久慈市と野田村に防災行政無線で再開を伝えてもらった。
 三鉄と並行する国道45号が通行止めで、宮古-田老間は線路上を歩いている人がたくさんいた。車が流された人も多かった。三鉄をすぐ動かすことで地域貢献でき、三鉄が頑張っている姿を住民に見てもらうことで励みになるとも考えた。
 ある運転士は「早期の運行再開より、地域でがれき撤去を手伝った方がいいのでは」と悩んでいた。宮古-田老間で試運転した際、住民が手を振ってくれているのが車内から見えた。「間違いはない。いいことをやっているんだ」と確信した。運転士も「よかったんだ」と喜んでいた。

 <一方、旧南リアス線(盛-釜石)は津波でレールが大きく曲がった箇所や、トンネルのひび割れ、橋の支柱の倒壊など被害が大きく、全線で早期復旧は困難だった>
 私が「三鉄やーめた」と言えば廃線になっただろうが、一度も絶望しなかった。金はかかっても国の支援を得れば何とかなると感じた。私は基本的に往生際が悪い。楽天的なんですよ。

 

復旧に力 地域の象徴に

 <三陸鉄道復旧のため沿線市町村の意見集約、国との折衝に奔走した>
 三鉄を建設した旧日本鉄道建設公団は明治、昭和の三陸地震の津波を参考にルートを決めた。津波対策のため山側を通ってトンネルが多くなった。震災前は津波を心配していなかった。
 2011年3月中に南北リアス線計107・6キロの調査を終え、復旧費は100億円前後と見込んだ。4月上旬、0泊3日の行程で宮古から夜行バスで東京に行き、当時の与党民主党に支援を要請した。
 4月18、19日に沿線市町村を訪問。(1)3年以内の復旧(2)被害や工事難度に応じて3期に分けて復旧(3)ルートは変更しない-との3点を全市町村長が賛成してくれた。7月の株主総会で復旧計画を正式に決めた。
 迅速に復旧の道筋を明示したかった。三鉄の行く末がはっきりしなければ、地域の人は三鉄を不要な交通機関と見なして、車中心の生活を強める自衛手段を取ると考えたからだ。復旧費は最終的に91億円。人件費や資材費が高騰する前に着手できた。

 <早期復旧に全力を傾けながら、被災地ツアー「フロントライン研修」の開催、損傷したレールを切り売りするなど収入確保策を模索した>
 会社が経営努力をしていると住民にアピールしないといけないと考えた。「被災者にカメラを向けない」「工事の邪魔をしない」「買い物をして帰る」というルールを設けて11年5月からツアーを実施した。研究者や各地の議会から被災地を見たいというニーズも多く寄せられていた。
 お金が落ちるので、次第に被災市町村から「ぜひうちにも視察を」と求められ、人気が出た。運転士には添乗員の資格を取ってもらい案内させた。運転士も被災者。たどたどしくてもリアリティーがあった。
 レール販売は11年8月に始めた。5センチ3万円、10センチ5万円。すべて社員の手作りで100セットが初日に完売。味を占めて第3弾までやった。沿線飲食店の料理を紹介する冊子「駅-1グルメ」も好評だった。

 <三鉄が復旧に向かう姿は全国に広まり、支援する動きは拡大。大企業が支援イベントを開き、志村けんさんやAKB48のメンバーら多くのタレントも駆け付けた。三鉄は岩手の復興のシンボルとなった>
 大手企業が駅で植樹したり、沿線の食材を使った弁当を販売したり、三鉄と野球チームを作ったり。地域が元気になる活動を展開してくれた。
 支援を断る理由はなく、支援側と被災地のつなぎ役を積極的に務めた。(半官半民の)第三セクターの役割だと思った。
 <13年4月、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が放映されると、三鉄ブームはさらに過熱した>
 11年12月、NHKのプロデューサーが来て「三陸地方をテーマにドラマを考えている。震災が絡み、三鉄を登場させたい」と言う。そのうち、NHKが周辺を回っていると聞こえてきた。約半年後に「朝ドラやります」と言われ、「じぇじぇ」となった。単発ドラマだと勝手に思い込んでいたから。
 全面協力し、ロケ専用の車両を用意した。12年夏に撮影が始まり、2、3週間でまとめて撮っていたかな。住民がエキストラ出演し、私も最終回に「北鉄」の社長役で出た。
 観光客が大勢訪れ、ドラマのようにウニ丼を車内販売したら飛ぶように売れた。ドラマ内で「袖ケ浜駅」として使われた堀内駅で、一場面をまねて「スターになりたい」と叫ぶ女性3人を見た。東京から来た台湾人で、台湾でもブームだと聞いてびっくりした。
 <14年4月、南北リアス線が全線運行を再開した>
 北リアス線開通の時、宮古駅から田野畑駅まで記念列車に乗った。全ての駅で大漁旗が振られ、無人駅にも大勢の住民がいた。「こんなにいるなら普段からもっと乗ってよ」と正直に思ってしまったけど。
 「おかえり」とのプラカードも見た。どこかへ行った親しい人が戻ってきた感覚なのかなと感じた。地域にとって大事なものだと認識されていると分かった。

駅中心のまち 実現支援

 <JR東日本が運行する山田線宮古-釜石間についてJR東と岩手県、地元市町村は14年12月、JR東が鉄路を復旧した上で三鉄に移管することで合意した>
 そもそも三鉄は、旧国鉄の赤字路線改革で三セク化した路線。宮古-釜石間は好調だったため三セク化されず、旧国鉄からJR東に引き継がれた。
 県と市町村がJR東と交渉に当たり、私も動いた。人員や車両を増やす必要があり、30億円の一時金を得ることもできた。三鉄には経営上プラスになった。乗客の多い路線であり、盛、久慈両駅の車両基地の大部分を宮古駅に集約できた。

 <三鉄復旧に合わせ、沿線市町村には駅を中心とした復興まちづくりを呼び掛けた>
 鉄道は生活路線という役割だけではなく観光の中心にもなるので、地域に不可欠な資源として生かしてくださいと話していた。
 岩泉町は、岩泉小本駅に役場支所などを併設し、周辺に新たな住宅地を造った。龍泉洞に向かう町営バスも通り、1次交通と2次交通の結節点になった。
 宮古市は宮古駅の隣に市役所を移設し、新しい住宅地の近くに新田老駅も開設。山田町はスーパーマーケットや金融機関を駅周辺に集約した。各市町村は三鉄を核として交流人口の拡大や住民福祉の向上につながる復興を目指してくれた。
 <退任後の19年3月、盛-久慈間のリアス線163キロが開通。三鉄は今、新型コロナウイルス感染症の流行で乗客が減少している>
 私はあまり苦労した気はしない。県職員の延長上で地域貢献できるモチベーションがあったからかな。地元だけでなく多くの人の支援と協力も大きい。
 三鉄はしばらくは辛抱だが、コロナ後を見据え、市町村やJR東とも連携して交流人口の拡大に取り組んでほしい。それが地域から期待されていることだ。
(聞き手は片桐大介)

[もちづき・まさひこ]1952年、山梨県生まれ、山形大卒。74年岩手県庁入庁。久慈市助役、盛岡地方振興局長などを経て、2010年6月~16年6月三陸鉄道社長。和歌山大教育アドバイザー。

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