渡辺穎二(わたなべ・えいじ)―育種家(美里町)―野菜の品種改良に挑む

広大な畑で白菜の出来栄えを確認する渡辺=昭和40年代初めごろ
渡辺穎二

 宮城で生まれた「仙台白菜」は大正後期、東京市場に売り出された。旧小牛田町(現美里町)出身の渡辺穎二(1898~1981年)は、その種子に改良を加え「松島白菜」を開発した。昭和初期に一大ブランドの地位に押し上げた。
 渡辺は豊富な農業知識と発想力で野菜の品種改良を進め、種子備蓄の技術を確立した。育種業界の黎明(れいめい)期を支え、近代化への礎を築いた巨人だ。
 生家の旧田尻町(現大崎市田尻)の呉服店では養蚕も行っており、少年期に病気で弱ったカイコを成熟させた経験が、農業に携わるきっかけとなった。
 小牛田農林学校(現小牛田農林高)に進学後、県立農事試験場に入り、5年間、育種学を学んだ。
 仙台白菜の栽培は大正期、宮城農学校(現宮城農高)教諭の沼倉吉兵衛(1859~1943年)が手掛けていた。渡辺は20代前半から仙台白菜に興味を持ち、改良に挑んだ。沼倉と直接の接点はなかったが、沼倉の試行錯誤を伝え聞き、奮起したとみられる。
 24歳の1922年、旧小牛田町に種苗会社「渡辺採種場」を創業し、松島湾の桂島で白菜の採種作付けを始めた。約20年間で寒冷地でも出荷が早く、うま味のある松島純1号、松島純2号、松島新2号などの改良種を次々に生み出した。
 栽培に失敗しても、諦めずに挑んだ。死去後の97年に発行された回顧録「天職に生きる」には「第1次世界大戦で疲弊した東北の農家を救いたいとの思いがあった」とつづられている。
 功績の一つに、種子備蓄の確立がある。国内で種子貯蔵がほとんど行われていなかった昭和初期。欧米の技術をヒントに土蔵を改造し、壁を厚くして機密性を保つ貯蔵法を探り当てた。
 育種に情熱を注ぐあまり、会社経営は妻ツヤヲに任せっきりだったという。三男で渡辺採種場会長の渡辺穎悦さん(86)は「種子の改良以外に興味はなかったのかもしれない」と笑う。
 渡辺は農業関係者からの問い合わせや講演の依頼に快く応じ、技術を惜しみなく伝えた。「父は農家に喜んでもらうことと農業の発展に貢献できることに、何よりもやりがいを感じていた」と、穎悦さんは話す。
 美里町の寺院、玄松院副住職で昭和の旧小牛田町を舞台にした小説を執筆する三浦正恵さん(66)は「人間関係や地域との連携も大切にしたので誰からも愛された。小牛田の歴史を語る上で欠かせない偉人だ」と評する。
 渡辺は76年、旧小牛田町で初の名誉町民に選ばれた。81年に亡くなった際は町葬で見送られ、会場の町文化会館に2500人以上が列を作った。
 生涯貫いた「育種による社会奉仕」。その言葉を社是とする渡辺採種場は来年、創業100年を迎える。
(小牛田支局・山並太郎)
 

渡辺採種場の創業50周年当時の社員ら=1972年10月5日

[メモ]渡辺は功績をたたえられ、1957年に藍綬褒章、68年に勲五等双光旭日章を受章した。22年に創業した渡辺採種場は、東北屈指の総合種苗会社として、これまで200品種以上を扱ってきた。栗原市の研究農場など県内外に6カ所の支店や事務所を持つ。社員130人。

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