「あの日から」第9部 なりわい(3) 斎藤晃さん 赤い実りに情熱を注ぐ

ビニールハウスで育てたイチゴを見て回る斎藤さん。温度や水の管理に神経を使う=1月22日、宮城県亘理町

 とちおとめ、にこにこベリー。赤い実が、日一日と輝きを増していく。

 「仕事を前へ前へと進めることを毎日考えている。血液までイチゴでできているかもしれない」

 斎藤晃さん(41)が冗談交じりに話す。

 東北有数のイチゴ産地、宮城県山元町。東日本大震災後の2015年7月に発足した農業生産法人「やまもとファームみらい野」取締役として、イチゴ作りの責任を負う。作業は2~5月が繁忙期だ。同県亘理町にある約30棟のハウスで、温度や水の管理、消毒などに細心の注意を払う。

 あの日は山元町のハウスで作業をしていた。激しい揺れに立っていられず、パイプにつかまった。自宅にいた妻裕美さん(41)と幼い子ども2人を車に乗せ、山手に逃げた。ハウスと自宅は津波に流された。

 イチゴ農家の父照明さん(67)、母ふく子さん(66)の三男として生まれた。建設業で働いていた20歳の頃、バイク事故に遭う。右脚を粉砕骨折し、8カ月の入院、リハビリの日々。「親に迷惑を掛けた」。以来、イチゴ生産の道を歩み続けてきた。

 「もうイチゴを作ることはねぇのかな」

 震災後、仮設住宅での暮らしはおよそ2年に及んだ。先の見えない不安。それでも、イチゴ作りへの情熱は失わなかった。

 会社勤めで生計を立てていた13年半ば。亘理、山元両町をカバーするみやぎ亘理農協(亘理町)の常務理事だった島田孝雄さん(66)から、「みらい野」への参画を打診された。「やります」。二つ返事で引き受けた。

 みらい野は、被災した山元町東部地区の地権者約50人の代表5人と農協が共同出資して発足した。掲げるのは住民参加型の持続可能な農業経営。島田さんが社長に、斎藤さんは取締役に就いた。

 宅地跡などを開墾した土地は計120ヘクタールに及ぶ。平らな畑地で一つの経営体としては国内最大級だ。桁違いの新たな挑戦には、リスクが付いて回った。水はけが悪く、地中にはがれきや石、パイプなどが埋まっていた。機械は故障が相次ぎ、赤字経営が続いた。

 土地に合う品種、育て方を手探りで見つけてきた。生産は徐々に軌道に乗り、20年度は初めて黒字確保のめどが付いた。主力のタマネギの収量は2倍以上に伸び、サツマイモの引き合いも増えている。イチゴは21年秋から新設の大型ハウスを活用する予定で、香港への輸出を視野に入れる。

 移って7年余りが過ぎた山元町の災害公営住宅では、毎日晩酌のビールを楽しむ。パートとして共に働く裕美さんに、ついつい仕事の愚痴をこぼしてしまう。震災当時は小学2年だった長女葵さん(18)は高校を、2歳だった長男翔君(12)は小学校を間もなく巣立つ。ゆくゆくは自宅を再建したいと思い描く。

 仕事の仲間や家族と苦楽を共にする。「生きていて良かった」と改めて思う。丹精込めて作ったイチゴを、みんなに食べてもらいたい。今日も早朝からハウスに向かう。(水野良将)

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