あの日、防災庁舎で(6)ずぶぬれの10人に吹き付ける雪。100円ライターで火をおこす

引き波で屋上があらわになった防災対策庁舎。雪が降っていた=2011年3月11日午後3時47分、宮城県南三陸町(写真展示館「南三陸の記憶」提供)

 屋上で生き残った10人に間断なく津波の恐怖が襲う。午後4時すぎ、宮城県南三陸町の防災対策庁舎の2階あたりまで波が引いた。白いヘルメットをかぶった町職員は、その後も繰り返しアンテナポールによじ登った。

 流された同僚のことを冷静に考える間もなかった。「ゴーッ」という海鳴り。約200メートル離れた公立志津川病院の屋上から「第2波が来るぞー」という病院職員の声がした。危機管理課の佐藤智さん(66)が「ポールさ登れ!」と叫ぶと、大小2本のポールに分かれて登った。

 「ええっ、これよりも大きな津波が来るのか」

 総務課の佐藤徳憲課長(70)は恐怖を感じた。子どもの頃から第1波より第2波の方が大きいと聞いていた。足場を探し懸命に上を目指す。革靴が滑り、なかなか登れない。職員の手は波にのまれた時に傷付き、つかんだポールの上から誰かの血が流れてきた。

 「町長が一番上へっ」

 職員に促され、佐藤仁町長(69)が先に約6メートルのポールに登った。数人でつかまった重みのためか、余震でしなる。濁流が防災庁舎に向かって流れ込み、生きた心地がしなかった。

 西から雪交じりの強風が吹き付ける。南三陸に近い気仙沼の気温は午後5時でマイナス0・3度。全身ずぶぬれになりながら、津波、寒さ、余震の三重苦に耐えていた。「このままでは低体温で死んでしまう」。佐藤課長は一瞬思った。

 雪をしのごうと、3階に降りてからも数回、屋上と上り下りした。疲れて動けなくなった職員もいた。

 海水を飲んで気を失った企画課の加藤信男さん(48)は憔悴(しょうすい)し切っていた。けいれんしたかのように全身の震えが止まらなかった。

 靴も脱げ、立っているのがやっと。海と化した街を見て「飛び降りたら楽だろうな」と思った。ジャンパーのポケットに入れた携帯電話を見ると、ストラップに付けた保育園児の長女の写真と目が合った。その場で足踏みを始め「絶対に生きるぞ」と連呼した。

 「ゆうくーん」。総務課の佐藤裕さん(40)は、薬剤師の妻が勤務する志津川病院の屋上から名前を呼ばれた気がした。泥水で目がかすんだが、もしやと思い手を振った。妻と、背の高い妻の友人が振り返してくれた。気持ちを何とかつなぎ留めた。

 気温が0度を下回る中、生き延びることだけで精いっぱいだった。ずぶぬれの体を暖めようと屋上を走り回った。おしくらまんじゅうのように職員同士で体を押し付け合ったりもした。

 「寒くて何かしないと気が紛れなかった。あばら骨が折れた痛みも感じないほどだった」。佐藤町長は思い返す。

 日が沈むころ、水位は2階あたりで落ち着き、やがてポールに登らなくなった。そもそも、そんな体力は残っていなかった。

 3階の壁は津波で抜け、赤い鉄骨がむき出しになっていた。冷たい北西の風が建物を吹き抜けると、体はさらに凍えた。佐藤町長らが漂着した毛布やシーツで風よけを作ろうと試みたが、何の役にも立たなかった。

 10人の命をつないだのは100円ライターだった。企画課の阿部好伸さん(43)のワイシャツの胸ポケットに入っていた。大津波を受けた時はポールにつかまっていて、上半身がぬれなかったのが幸いした。

 危機管理課の佐藤さんのネクタイを裂き、火種にした。自家発電機の重油が流れ、床がつるつると滑る。流れ着いたベニヤ板や発泡スチロールを慎重にかき集め、まきをくべた。3階に突き刺さった長さ8メートルの太いはりをみんなで運び、火を移すと赤々と燃え上がった。

 午後6時ごろ、高台に避難した人が防災庁舎にともった小さな明かりに気付いた。

 「これで助かるな」

 総務課の佐藤課長は心の中でつぶやいた。
(肩書は当時)

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