災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から(1)地震と水害 立て続けに城下襲う

明治元年現状仙台城市之図(仙台市指定文化財)。維新の約30年前、地震と台風が城下を襲った(仙台市博物館蔵)
1835年に氾濫した広瀬川の評定河原橋付近。左手の森にある穴蔵神社は、この時の洪水で社殿が流失し、現在地に遷座したという

 江戸時代の日本は災害が相次いだ。特に後期の天保年間は冷害や地震、台風が仙台藩を襲い、多くの被害が出た。東日本大震災から間もなく10年。災害関連の古文書に詳しい東北大災害科学国際研究所の佐藤大介准教授(歴史学)の研究を基に、約180年前の仙台を訪ねる。(年月日は新暦。古文書の意訳は佐藤准教授による)

 1833(天保4)年の飢饉から立ち直りつつあった仙台藩を大地震が襲ったのは、35年の7月20日昼ごろだった。天保の「宮城県沖地震」だ。
 近江商人中井家の日記「四番諸事日下恵」には、「中井家仙台店では蔵の壁が破損、瓦が落ちる」「養賢堂(仙台藩校)の火の見櫓(やぐら)から人が落ちて死んだ」などの記述がある。
 市史によると、仙台城の石垣が崩れ、余震が続いた。震源は宮城県沖、マグニチュード(M)は7・0と推定される。宮城、福島両県で最大震度6強を記録した今月13日の地震の規模(M7・3)と比べても、大きな揺れだったことが分かる。
 余震が多く、中井家仙台店の「仙台店々要用記」には「日々、夜に中小の地震が数度あり、12月までに数百回というぐらい震え、はなはだ心地悪く暮らした」と記されている。
 地震から40日後の8月30日、今度は日本列島を縦断した台風が仙台藩を直撃し、広瀬川が氾濫。地震で地盤の緩んだ城下では被害が拡大した。大橋、評定(河原)橋、(仲ノ瀬橋の前身の)大工橋が流されるなど、当時の脆弱(ぜいじゃく)な都市基盤はひとたまりもなかった。
 「(仙台市青葉区大手町付近にあった)御小人町も流失、死人が多く出た」「追廻から霊屋下の家々は残らず流された」「広瀬川筋では600~700軒の家が流され、400人あまりが亡くなった」「河原町は一番の被害」
 仙台藩領だった一関市藤沢町の商家に伝わる「丸吉皆川家日誌」は、こう伝える。広瀬川の水を分流し、市中を流した四ツ谷用水が増水。中心部も洪水となった。
 洪水被害は、その年の藩の収穫高を81%も減らした。藩士荒井東吾は意見書で「寺社の造営、豪華な家造りや贅沢(ぜいたく)な暮らしのために山の木々を消費するので、雨のたびに領内の川側に土砂が流れ込み、川底が上がり、洪水が起きやすくなっている」と分析した。
 約40年ぶりの大地震、「仙台始まって以来」と言われた水害。度重なる災害は世情の安定を崩す。「地震や洪水が起こるのは、今までにない政治を行おうとしているからだ」。藩の支出削減や学識ある藩士の登用など、政治改革に取り組んでいた12代藩主伊達斉邦(なりくに)への批判が起こる。
 そして、翌年は33年を上回る大飢饉となった。

仙台市歴史民俗資料館では4月11日まで、特別展「仙台の災害~天災は忘れた頃に~」を開催している。

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