(1)家族知人と共に… 「仮の町」に描いた夢

いわき市内で接骨院を経営する矢口。県内外に避難した住民らが受診に訪れる

双葉町民 矢口守夫(66)=福島県いわき市

 東京電力福島第1原発事故の発生から1年5カ月後の2012年8月。避難生活を送る福島県双葉郡の住民ら約200人が福島県いわき市内の宿泊施設に集まった。地元選出の国会議員や県議らも顔をそろえた。

 「何も多くを望んでいない。家族が一緒に住めるようにしてほしいだけだ」。双葉町から同市に避難し、接骨院を経営する矢口守夫(66)は約30分間、切々と思いを訴えた。

 市内にあるゴルフ場を「仮の町」として整備し、避難者がまとまって暮らす構想があった。実現には至らなかったが、古里を追われた住民らの「家族や知人と共に暮らしたい」という切実な思いが会場を埋めた。

 福島県浪江町で生まれた。1980年、隣の双葉町で接骨院を開業した。地元だけでなく、南相馬市や富岡町などからも患者が集まり、1日100人を診ることもあった。

 原発事故を境に双葉町は一変する。全域に避難指示が出され、知人を頼って東京に逃れた。その間も、全国各地に散り散りになった患者から電話があった。慣れない避難生活で体調を崩す人が多かった。

 「自分にはこの仕事しかできない」。2011年6月、双葉町民が多く避難するいわき市内に物件を見つけ、契約した。東京での避難生活を12月に終え、事故から約1年たった12年3月、接骨院を開く。

 新しい店で再会を果たした高齢者らは抱き合い、涙を流した。「そういう姿を見るのがうれしかった」と振り返る。家族や知人と共に暮らす日常。その尊さを改めて肌で感じた。

 知人を介して「仮の町」の構想を聞いたのは12年夏前だ。双葉、大熊両町といわき市の有志で「いわき・ふたば絆の会」を立ち上げ、双葉町民の代表として発起人に名を連ねた。約700人分の署名も集めた。

 避難に対する補償は出ておらず、生活再建への道筋が見えない状況が続いていた。家族は数カ所に分かれて暮らし、「雲をつかむような生活」を強いられていた避難者にとって「仮の町」は一筋の光となった。

 大手建設会社がゴルフ場の敷地や既存の建物の利用構想を作り、概算の売却額まではじき出した。バスを仕立て、東京まで出向いて要望活動を展開したが、自治体が住民帰還時に地元が空洞化することを懸念するなどしたため、約1年後、構想は立ち消えとなった。

 原発事故から10年がたった今も、古里への帰還がかなわず、全国で避難生活を強いられる住民が数多くいる。原発事故がもたらしたのは「家族を寸断し、親族を分断した」ことだと強く思う。

 地元の双葉町では、22年春の特定再生復興拠点区域(復興拠点)の避難指示解除と住民の居住開始を目指し、新しい街づくりが進む。帰りたい町、住みたい町とは何なのか-。考えることが多くなった。

 双葉町内の自宅は残し、除染を済ませた。帰れる環境になったら、いわきの店を子どもに任せ、双葉で接骨院を再開したいと考えている。地域の人が集い、話し、笑う場所をもう一度つくりたいと願う。
(敬称略)

 原発事故で被災した人々の生活が一変する中、復興に向けた動きが徐々に始まった。いつ抜けるか見当が付かない長いトンネルを走るような道程。事故前の古里に戻そうと懸命に生きる人々の姿を追った。

埼玉県加須市に役場ごと避難していた双葉町がいわき市に仮役場を移し、業務を始めた。看板を掛ける伊沢史朗町長(左)ら=2013年6月17日、いわき市東田町
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原発事故と私

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から2021年3月で10年。巨大津波で甚大な被害を受けた3県の中で、第1原発が立地する福島は復興の遅れが目立ち、住民は今なお風評との闘いを強いられている。被災者や当事者の記憶から複合被災地・福島の10年の足跡を振り返り、あるべき復興の姿を展望する。

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