夫婦の涙照らす二つの光 石巻の小高さん夫妻「笑顔満ちる家、もう一度 」

野蒜海岸を訪れた小高さん一家。ランドセルやおもちゃをおたき上げした思い出の場所だ=2月21日、東松島市野蒜
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 冷たい潮風が頬をなでる。「貝殻がたくさんある」「真っ白だね」。男の子が1歳上の姉と目を輝かせた。砂浜には無数に貝殻が転がっていた。
 男の子は7歳にして初めて海岸を歩いた。1歳の時以来となる8歳の女の子にも記憶はない。子ども心に海の怖さを知っているのか。男の子は、初めは海に背を向けられないでいた。
 石巻市の小高政之さん(41)、正美さん(41)夫妻は近くで姉弟の様子を見守りながら、少し複雑だった。
 「子どもたちがはしゃいでいるこの海が、あの時、姿を変えたんだ…」
 10年前のきょう、東日本大震災の津波で8歳、5歳、3歳の子ども3人と両親を失った。絶望の中、「夫婦で子どもたちの元へ旅立とう」。そう心に決めた日々もあった。
 悲しみは消えない。それでも、前へ歩む。震災後に授かった二つの命を力にして。

「いつかあの子たちと再会するとき 、恥ずかしくない生き方をしよう」 

「もえかー、ゆいとー、しょうたー」
 2011年3月15日、石巻市の小高政之さん(41)、正美さん(41)夫妻はわが子の名前を叫び続けた。
 上釜地区の自宅にいたとみられる釜小2年の長女萌霞(もえか)さん(8)、幼稚園児の長男唯一翔(ゆいと)ちゃん(5)、保育園児の次男翔太ちゃん(3)、同居していた父惇二さん(72)、母みさ子さん(59)=年齢はいずれも当時=と会えずにいた。
 正美さんは自宅から約4キロ先の石巻商工会議所で勤務中に揺れに襲われ、同僚と近くの日和山に避難した。建設会社で働く政之さんは仙台市内にいた。
 ようやく水が引き、2人は4日ぶりに自宅にたどり着いた。4年前に建てた木造2階の自宅は1階が津波で突き破られ、がれきに埋もれていた。集落は家ごと流され、跡形もない。自宅がぽつんと立つ光景が、現実とは思えなかった。
 がれきをどかして階段を上った。子ども部屋の学習机の脇に萌霞さんのランドセルが掛かっていた。「帰っていたんだ」。母は1階の台所でうつぶせになって倒れていた。初めて最悪の事態を覚悟した。
 3日後の18日、遺体安置所で唯一翔ちゃんを見つけた。水を飲んだのか顔が腫れ、ふっくらしていた。2~3歳の頃のようだ。われを忘れて泣き叫んだ。
 翌日、別の安置所で萌霞さん、惇二さんと対面した。2人は近くで見つかった。惇二さんの服はぼろぼろ。背中に、がれきに巻き込まれたとみられる傷が多く残っていた。
 不思議と萌霞さんの顔は傷一つなかった。「じいちゃんが、とっさにかばってくれたんだ」。そう思えるほど、ただ眠っているだけのように見えた。
 萌霞さんの亡きがらをひつぎに納め、新しい洋服や下着を入れた。目から血がにじんだのか、赤い涙がぽろっと落ちた。「萌ちゃん。泣かないで…」。泣きながらそっと拭った。
 

上釜地区は石巻湾に近く、高さ3メートル以上の津波が押し寄せた。約3200人が住んでいた地域は壊滅状態となり、約200人が犠牲になった。
 政之さんは重機でがれきを撤去しながら翔太ちゃんを捜した。「翔太が見つかったら夫婦2人で命を絶とう」。心に決めた。
 震災から初の月命日となった4月11日。自宅から数百メートル先で翔太ちゃんが見つかった。つぶれたビニールハウスの下にいた。きれいな顔をしていた。「翔太は私たちに頭を冷やす時間をくれたのかな」。亡き息子が、2人の命をつないでくれた。
 5月に東松島市にワンルームのアパートを借り、小さなテーブルに5人の位牌(いはい)を並べた。「子どもたちの居場所を知りたい」。霊能者に尋ねると、「自分たちが引きずれば引きずるほど、あの子たちは天国に行けない」と諭された。
 毎朝7合炊いていたご飯は、1~2合に減った。「カサッ、カサッ」。コメをとぐと軽い音がする。家族が減った現実を突き付けられている気がした。
 「お母さん、ありがとう」。記念日でもないのに、大きな模造紙に書いてプレゼントしてくれた萌霞さん。
 「俺がやっつけてやるから」。学校で意地悪され、涙ぐむ萌霞さんを励ましてくれた唯一翔ちゃん。
 3姉弟で最も我が強い翔太ちゃんは、床にひっくり返っておねだりしたっけ。
 正美さんは3人の子を思い出すたび、「すぐ自宅に戻っていたら助けられたかも」と自分を責め続けた。
 「せっかく翔太に助けられたのに…。この仏たちを守らないと」。墓の建立、百か日法要の準備。余計なことを考えないようカレンダーの空白を埋めていった。
 「いつかあの子たちと再会するとき、恥ずかしくない生き方をしよう」。2人は誓い合った。

 12年8月21日午前2時4分、石巻市の石巻赤十字病院で産声が上がった。2826グラム。正美さんは分娩(ぶんべん)台で生まれたての小さな命に触れた。「もう子どもを抱くことはないと思っていた」。ぬくもりに涙があふれた。
 宝物という思いを込め、珊瑚(さんご)から1字取って瑚乃美(このみ)と名付けた。天国の家族が与えてくれた気がした半面、罪悪感にも似た感情を抱いた。「生き残った私たちだけが幸せになっていいのかな」
 前の年の12月、海から5キロ離れた石巻市内に自宅を建てた。お盆に帰ってくる子どもたちの魂を、温かい家で迎えたかった。
 焼香に訪れた亡き子どもたちの友達や親が瑚乃美さん(8)を抱っこしたり、ミルクをあげたり。14年1月22日には三男の斗輝矢(ときや)君(7)も誕生した。「にぎやかで笑顔が絶えなかった家庭をもう一度築きたい」。育児に追われながら、少しずつ前を向けるようになった。
 17年3月、上釜地区に慰霊碑ができた。以来、命日は一家4人で慰霊碑を訪ね、自宅跡にも立ち寄る。
 生まれ育った古里を、あんなに大きな津波が襲うとは想像もしていなかった。
 「失った3人の子に自分の命を守る大切さを教えられなかった。瑚乃美たちには、子どもや孫の代まで永遠に語り継いでほしい」
 

 瑚乃美さんと斗輝矢君は亡ききょうだいの存在を理解できる年頃になった。
 今年2月13日の深夜に起きた地震は、石巻で震度6弱を観測した。瑚乃美さんが正美さんにしがみつき、「あの時もこうだったのかな」とつぶやいた。大好きなチョコレートは、まず仏壇に供えてから食べる。姉と兄2人の誕生日は家族みんなでお祝いしている。
 生きていれば萌霞さんは18歳、唯一翔ちゃんは15歳、翔太ちゃんは13歳。「萌ちゃんは大学生かな。運動神経が良かった唯一翔はスポーツ推薦で高校に行ったかも。翔ちゃんはお兄ちゃんと同じ部活だよね」。今の姿をつい想像する。
 瑚乃美さんは今、萌霞さんと同じ小学2年生。くりっとした目や明るい性格も似ているが、ランドセルは姉のピンクと違い、エメラルドグリーンを選んだ。斗輝矢君は、活発だった兄2人に比べ少しおとなしい。兄2人の年齢を追い越し、小学生になった。
 これからは瑚乃美さんと斗輝矢君が成長する姿に、亡き3人の子の失われた未来を重ね合わせる。
 普通や平凡が、実は一番難しい。震災でつくづく思い知らされた。
 「再びつかんだこの幸せを守り抜くため、パパとママは強く生きるよ」
 星になったあの子たちに伝えたい。
(氏家清志)

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