「あの日から」第11部 公務員(2) 釜石・中平貴之さん(下) 熱い交渉重ねて航路拡大

国際港湾産業課の同僚と会話をする中平さん=3月30日、岩手県釜石市役所

 ひげ面に、つなぎの作業着姿。これまでの苦労が走馬灯のように浮かび、力説する目に涙がにじんだ。

 「皆さんの想像以上に、国際コンテナ定期航路の有無は地方経済の行く末を左右する。どうか釜石港に目を向けてほしい」

 東日本大震災から2カ月半後の2011年5月31日。岩手県釜石市国際港湾産業課課長補佐の中平(なかだいら)貴之さん(47)は、市内の釜石港を訪れた香港の国際海運大手OOCLの日本法人幹部らと向き合った。

 太平洋側の港が軒並み被災し、コンテナ船各社は寄港先に困っていた。航路開設の可能性を探ってもらおうと、震災前から連携する国内の海運会社の助力で実現した視察だった。

 釜石港は津波で湾口の防波堤が倒壊し、外洋の波がそのまま押し寄せていた。公共埠頭(ふとう)は最大1・2メートル地盤沈下した。満潮時は一部冠水する。1カ月で仮復旧にこぎ着けたとはいえ、施設の不備は明らかだった。

 海は荒れていた。近くに停泊していた船が波にもまれる。中平さんの大演説が終わった途端に「バチン、バチン」と係留ロープが3本切れた。慌てて数人が駆け寄りロープを引っ張ったが、自身は放心して動けなかった。「もう駄目だ」。埠頭は静まり返った。

 翌月、OOCLの航路開設が伝えられ、11年7月にコンテナ船の第1便が寄港した。「港湾振興の人間に数多く会ったが、燃えている目を20年ぶりに見させてもらった」。復興支援で決断した日本法人幹部の言葉が、漏れ聞こえた。

 国際貿易拠点化の一歩を刻んだものの、荷物が少なければ航路は維持できない。中平さんは輸出入をしている岩手県内約300事業者を割り出し、11月から3カ月間、1人で電話をかけ続けた。コンテナを使っているか。量はどのくらいか。ひたすら情報を集めた。

 「物流は企業秘密なのに震災後の大変な時期だけは心の扉を開いてくれた。『今しかない』と必死だった」。脈があれば面談を願い出る。県外の本社も訪問し、荷主を開拓した。通い続け、7年がかりで他港からの切り替えに成功したケースもあった。

 震災から10年。釜石港でコンテナの輸出入サービスを手掛ける海外の船会社は4社に増えた。ガントリークレーンの設置や冷蔵冷凍コンテナ用電源の拡充など港湾機能も強化された。大半が無料区間の三陸沿岸道と釜石道が市内で結節したことも追い風だ。港を利用する企業は震災前の3社から113社に増加した。

 それでも中平さんは目の奥を光らせる。「明日どうなるか分からないのが、この世界。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわり。気を抜いたら陥落する」

 過疎化が進む市内山間部の橋野地区で生まれ育った。釜石は震災の津波で大きな被害を受けた。傷ついた郷土に恩返しをしたい。競争の重圧を日々感じながら自身を奮い立たせる。

 コンテナ取扱量は順調に伸びたが、経済活性化の「一丁目一番地」と位置付ける企業誘致は道半ばだ。工場が建ち、原料や製品の輸出入でコンテナを使う。10人でも、20人でも雇用を生み出す-。

 「苦しくてもサバイバル(生き残り)を続けていけば釜石港の歴史が変わる」。中平さんは確信している。
(東野滋)

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