「震災10年 あしたを語る」前岩沼市長 井口経明さん 避難も移転も集落単位貫く

井口経明さん

 <岩沼市は東日本大震災後、「復興のトップランナー」と称された>
 被災者が一日も早く次のステップに踏み出したいと思うのは当たり前。震災直後から復興のトップランナーを目指すべきだと考え、スピード感とコスト意識にこだわった。キャッチフレーズがあった方が分かりやすいだろう。
 市域の半分近くが津波で浸水したが、行政中枢の被害は免れた。市庁舎の耐震補強を前年の12月に終えたばかりで、ラッキーな面もあった。仮設庁舎を建てていたら復興は遅れていた。
 非常事態には首長がトップダウンで采配を振るうべきだ。震災時は私が方向性を示し、市職員がうまくこなしてくれた。議会の対応も柔軟だった。被災した沿岸6集落はリーダーを中心にまとまりが良かった。こうしたことがトップランナーとなったゆえんではないか。
 <阪神大震災の教訓を踏まえ、復興まちづくりに当たった>
 阪神大震災では、せっかく救われた命を自ら絶つ人がいた。自殺者をなくすには、ぼやきでも愚痴でも話せるよう身近に知り合いがいた方がいい。だから、避難所から仮設住宅、集団移転まで集落単位で進めた。
 宮城県内の被災自治体で仮設住宅に入居する際、抽選を一切しなかったのは岩沼だけだ。抽選は公平に見えるが、そうは思わない。集落単位で入居したので、最初と最後で1カ月ほどの時間差があったが、大きな苦情はなかった。
 <沿岸6集落が集団移転した玉浦西地区の復興まちづくりは、住民の意見を反映させることに腐心した>
 まずは1カ所にまとまってもらおうと、集団移転先を決めた。その後のまちづくりは住民代表らが30回近く集まり、検討した。各集落の住民代表には必ず女性と若者を出してもらった。女性ならではの生活に根差した細やかな視点やコミュニケーション力は大いに役立った。10年、20年と住み続けてもらうには若い人の意見を聞かなければならない。
 <市は津波に対する多重防御の一環で、14基の避難丘を配した緑の防潮堤「千年希望の丘」を整備した>
 1000年先まで持続可能な岩沼をつくっていく象徴にしたいと私が名付けた。コンクリートや鉄骨はいずれ朽ち果てる。津波で海岸林の松は根こそぎ流されたので、根を張る広葉樹を繁茂させるのがいいと判断した。
 避難丘は津波で流された松の木や家の土台などの災害廃棄物で盛った。廃棄物と言ってもガラクタではなく、犠牲者や被災者の思い出の品。そうした人たちの思いを生かしたかった。
 しかし、国に言ったら「毒ガスが発生したり、陥没したりするかもしれない」と難色を示された。実証実験を行いOKとなったが、前例がない事業に取り組むのは大変だった。将来は千年希望の丘を「知恵の遺産」として生かしてほしい。
(聞き手は小沢一成)

[いぐち・つねあき]1945年、東京都生まれ。宮城教育大卒。学習塾経営から岩沼市議7期、市社会福祉協議会長、市議会議長を経て、98年の市長選で初当選した。2012年、全国市長会副会長に就任。14年6月、4期16年で市長を退任した。

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