<証言>校舎残し街が消えた 仙台・荒浜小、救助までの27時間 東日本大震災10年

津波で孤立する荒浜小。屋上や教室に320人が取り残された=2011年3月11日午後4時9分(仙台市提供)

 東日本大震災で仙台市若林区の荒浜小(2016年3月閉校)には高さ4・6メートルの津波が押し寄せ、4階建て校舎の2階の床上40センチまで浸水した。辺り一面は黒く濁った海と化し、児童と教職員、避難住民の計320人が孤立した。不安と寒さに襲われながら励まし合い、救助を待った27時間を関係者の証言で振り返る。
(上村千春)

「校舎に入れっ!」校長は叫んだ

 2011年3月11日。荒浜小には全校児童91人のうち88人が登校した。1年生は昼食後に下校し、2、3年生も5時間目が終わり、帰宅途中だった。4、5年生は6時間目の授業中。6年生は卒業式を翌週に控え、校内清掃をしていた。

 午後2時46分。校長の川村孝男さん(65)は2階の校長室で経験のない強烈な揺れに襲われた。机上のパソコンが落下し、歴代校長の顔写真が床に散乱した。

 窓の外を見ると、児童10人ほどが教員2人に抱きかかえられるように、校庭の中央にしゃがみ込んでいた。「校舎に入れっ!」。学校は海岸から約700メートルの距離にある。川村さんはハンドマイクで校庭に向かって叫んだ。

 川村さんは前年に荒浜小に赴任した。学校の避難計画を確認すると、地震発生時の避難場所に校庭も含まれていた。津波への危機感を強め、避難先を校舎屋上1カ所に絞った。震災2日前の地震後、「屋上は寒い。児童は校舎4階に避難させよう」と教頭らと申し合わせていた。

 午後3時10分。校庭にいた子どもたちを含め、校内の児童全員の4階への避難が完了した。その後、保護者が次々とわが子を迎えに訪れた。そのまま学校で様子を見守った親子もいれば、校外へ避難した親子もいた。最終的に児童71人が学校に残った。

 3年生の担任だった50代の女性教諭は、児童を4階の5年生の教室に集めた。余震に備えて丸く並べた机の下に潜らせると、「今のうちに宿題をやっちゃおう」と明るく促した。

 3年の熊谷花瑚(かこ)さん=当時(9)=は「ママが来ないよ」と言いつつ、不安なそぶりはなかったと周囲は記憶する。母親=同(37)=が迎えに来て学校を離れ、津波に巻き込まれた。熊谷さんは荒浜小児童ただ1人の犠牲者となった。

 
 荒浜地区には高い建物がなく、地域住民も荒浜小に避難した。荒浜北町内会長だった早坂勝良さん(80)は、学校から6キロ内陸にある店舗の駐車場で地震に襲われた。

 「宮城県沿岸に高さ6メートル以上の津波が来ます」。カーラジオの緊迫した声が耳に入った。「学校に避難してくる人を世話しなければ…」。渋滞する対向車線を横目に荒浜小へ車を走らせた。

 学校では各町内会長と協議し、地区別に3階の教室を避難場所に割り当てた。東端の3年生の教室には荒浜北町内会などの39人が身を寄せた。

 「あれは何だ。津波じゃないか」。ベランダから海を眺めていた住民が大声を上げた。黒い山のような波が、建材や松の木をバリバリと引き裂いて近づく。波しぶきが、無数に舞う白いチョウのように見えた。一緒にベランダにいた早坂さんは慌てて教室に戻り、身を伏せた。

 
「ドーン」

 午後3時55分。津波が校舎にぶつかり、ごう音が響いた。早坂さんが顔を上げて外を確かめると、見慣れた松林や街並みが跡形もなく消えていた。

教室に豆電球「明るいね」

 「やばい、やばい。上がれ、上がれ」。校庭にポンプ車が止まると、消防団員が慌てて駆け込んできた。

 仙台市若林区の荒浜小校長の川村孝男さん(65)は2階に移動し、東側の窓に視線を向けた。住宅が左から右へ横切るのが見えた。

 そういえば、足元がぬれている。「何だろう…」。そう思った瞬間、大量の黒い水が窓を突き破り、襲いかかってきた。急いで階段を駆け上がる。濁流は階下へ滑り落ちていった。

 4階に避難した児童はその直前、屋上へ誘導されていた。6年だった会社員阿部翔也さん(22)=若林区=は、自宅や友達の家が津波に破壊される一部始終を泣きながら見ていた。

 津波は県道塩釜亘理線を越え、阿部さんの祖父母宅にも向かった。「みんな大丈夫だろうか」。祖父母宅にいるはずの年下のきょうだいが心配だった。

 津波の勢いが衰えると、児童は校舎内に戻った。雪が強く降っていた。「目の前の子どもを守るため、何ができるか」。川村さんは身震いした。学校にいない児童20人の安否も気掛かりだった。

 午後5時ごろ、自衛隊のヘリコプターが上空に現れた。着陸は難しく、一人ずつ引き上げることになった。川村さんは児童を安心させようと、ハンドマイクで呼び掛けた。「搬送先で臨時の荒浜小の分校をつくります」

 救出作戦は夕暮れの午後5時半に始まった。幼稚園児から順に約10人ずつヘリに乗せ、陸上自衛隊霞(かすみ)の目駐屯地(若林区)に向かった。先に救助された教員2人が児童の到着を待った。

 夜、校舎にとどまった子どもたちはカーテンや暗幕にくるまり、寒さに耐えた。3階に保管してあった非常食と飲料水で空腹をしのいだ。ラジオが「荒浜で200~300人の遺体」と繰り返していた。

 恐怖で震える子、冗談を言って周りを和ませる子。停電で周囲は真っ暗。4年生が授業で使った豆電球をともすと、「電気って明るいね」と歓声が上がった。児童71人の救助が完了したのは12日午前5時ごろだった。

 荒浜北町内会の住民は3階の教室に身を寄せた。町内会長だった早坂勝良さん(80)は仙台港の製油所火災を窓から眺めながら、「刻々と変化する状況にどう対応すればいいのか」と考え続けた。

 教職員や住民が籠城を覚悟し始めたころ、複数の消防団員ががれきをかき分け、荒浜小にたどり着いた。「陸路が通じている」。川村さんは驚いた。

 自力で移動できる住民約40人が4キロ内陸側にある七郷小(若林区)に向かった。はぐれないよう消防用ホースをみんなで持って歩いた。午後には荒浜小前に大型ヘリが離着陸できるスペースが生まれ、救助のペースが格段と上がった。

 車や流木が1、2階に流れ込み、無残な姿の校舎が夕日を浴びて輝いていた。午後6時ごろ、川村さんは町内会長と一緒に最後に救出された。

 「助けてくれてありがとう」

 川村さんらしんがりの一行がヘリに乗り込み、320人の命を守った校舎を後にした。

震災遺構となった荒浜小校舎から海を眺める川村さん。ベランダに津波の爪痕が残る=今年2月下旬、仙台市若林区
河北新報のメルマガ登録はこちら
3.11大震災

復興再興

あの日から

復興の歩み


企画特集

先頭に戻る