「震災10年 あしたを語る」 普門寺住職 坂野文俊さん 復興追い求め、地域の拠点に

坂野文俊さん

 東日本大震災の惨禍の中、死の淵、絶望の暗闇に立った。今、ある人は生きる人たちの道を照らし、ある人は喜びをもたらす。再起まで一本道ではなかった。かき分け、つまずき、たどり着いた10年の物語。

 <東日本大震災で海から約500メートルの宮城県山元町花釜地区の普門寺は津波に襲われ、屋根と柱を残して全壊。家々が流失し、地域は甚大な被害を受けた>
 檀家(だんか)約250人のうち約60人が犠牲になった。号泣しながら葬式でお経を上げた。面倒を見てもらった方々の生前が思い出され、中断してしまうこともあった。出来の悪い坊さんだが、遺族と一緒に泣いた。
 <立ち入り制限区域となった境内で、1人でがれきの撤去を始めた>
 お墓は倒れ、がれきに埋もれた。檀家のおじいさんがやって来て「おらいの墓はどこだ。家も親類も失い、先祖の墓もなくなっては生きる希望がない」とつぶやいた。せめてお墓がどこにあるのか見えるようにし、手を合わせられる道を作ろうと決めた。スコップと一輪車で泥を運び出す毎日。1日50センチしか進まないこともあった。作業着やジーンズが普段着となった。

 <2011年7月、おてら災害ボランティアセンター(テラセン)を寺に設立し、沿岸部の復旧支援の拠点になった>
 山元町は当初、他の被災地より被災状況が伝わらず、支援が遅れていた。5月の連休明けに出会った名取市のボランティア藤本和敏さんが会員制交流サイト(SNS)で発信し、全国から支援者が集まった。04年の新潟県中越地震など災害現場で経験のある人たちや東京都のNPO法人国際ボランティア学生協会(イビューサ)の若者たちが月に1000人もやって来て、家々で片付けをした。
 実は、檀家役員会は11年4月、寺を取り壊す方針を決めていた。自分はどうしても受け入れられなかった。テラセンの活動で徐々に復旧が進むと、檀家も現地再建に協力してくれ、解体の話は立ち消えになった。
 初盆の法要は、残った柱などを生かしてブルーシートやコンパネで覆った本堂で行った。住民の焼香の列が途切れなかった。

 <テラセンは14年から月1回の「てらマルシェ」となり、元住民や支援者が交流する場所となった>
 自分はここにずっといる。いつでも来てください。みんなにそう呼び掛けた。沿岸部は津波防災区域(災害危険区域)になり、元住民が集う機会がなかった。お茶を飲んだり、コンサートを企画したり。理想だった「気軽に来られる寺」が実現した。震災で得られたものもある。新型コロナウイルスの影響で昨年3月から開催できず、もどかしい。
 沿岸部の復興はこれからだ。何度も心が折れそうになったが、その度に檀家やボランティアに支えられてきた。どうなれば復興と言えるのか答えはまだないが、自分は考えるより行動するタイプ。地域のご先祖さんから役目をもらったのだと思う。これからも、この場所で生きていく。
(聞き手は庄子晃市)

[さかの・ぶんしゅん]1963年、宮城県山元町生まれ。駒沢短大仏教科第二部(夜間)で学びながら、曹洞宗大本山永平寺東京別院で修行。83年、普門寺住職に就任。2010年、5年計画で行った本堂の改築や会館と庫裏の新築が完成。被災後、寺は残った骨組みを生かして修繕した。

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