「震災10年 あしたを語る」 尾半ホールディングス社長 間瀬慶蔵さん 地場産品に力、山田町を発信

間瀬慶蔵さん

 東日本大震災の惨禍の中、死の淵、絶望の暗闇に立った。今、ある人は生きる人たちの道を照らし、ある人は喜びをもたらす。再起まで一本道ではなかった。かき分け、つまずき、たどり着いた10年の物語。

 <東日本大震災の津波で尾半グループ(岩手県山田町)は二つのスーパーとガソリンスタンドなど全ての事業所を失う。テントで営業を再開したのは4日後の3月15日だった>
 津波の後、すぐ火事が発生した。燃え尽きていく町を見ながら、今、自分は何をしなければならないのか考えた。夜になってようやく、地域に食べ物を届けること、商品を届けることが使命だと、心が定まった。すぐ盛岡に行き、取引先を回って商品を持ってきてほしいと頼んだ。
 車を流された人のために17日には移動販売も始めた。これから大変とは思ったが、絶望感はなかった。家族が無事だったからだろう。欠けていたら前向きな気持ちにはなれなかった。

 <2011年8月、びはんプラザ店を復旧再開した。しかし、16年11月にはその店を閉じ、町の復興計画に応じて三陸鉄道の陸中山田駅前にオール店を出店する>
 いろいろと準備が必要な震災犠牲者の初盆までにプラザ店をどうしても復旧したかった。
 プラザ店が面する国道45号を中心に地元の商店やロードサイド店を集積しようと動いていた。町の計画には感情的な反発心も覚えたが、他店が進出する話もあり、より魅力的な中心市街地をつくるため、地域のために移転を決断した。今振り返ると正解だった。
 <経営者としての抱負の第一に地域貢献を掲げる。地場産品を生かした商品開発にも熱心だ>
 びはんは山田で商売をしている。他地域に店舗展開するのではなく、町内の2店を軸に深く根を伸ばしていく。山田を盛り上げないとうちが駄目になる。
 商品開発は山田の産品を県内外のメーカーの看板商品と組み合わせるのが基本。商品名に山田の地名を入れるので、認知度向上には貢献していると思う。
 昨年11月にはスポーツジムとバルを開いた。住民の健康増進と食文化の発展につなげたい。空き区画が目立つ中心部にキャンプ場を開設する計画もある。山田の魅力を発掘し続ける。

 <会社のホームページに「今年の3月11日に町を見て、10年でこの風景か…。私は何をやってきたのか」と記した>
 土地はいっぱい空いているし人は歩いていない。寂しく感じた。これからもっとやるぞ、復興の歩みを緩めては駄目だ、という決意の裏返しでもある。
 10年間、つらいこともたくさんあった。震災で亡くなった人がうらやましいと思ったことさえある。生き残った以上、やるしかない。負けていられない。山田を世界中から人が来る富士山のような町にしたい。地域に守られるのではなく、けん引する存在に尾半グループはなりたい。
(聞き手は中島剛)

[ませ・けいぞう]1978年、岩手県山田町生まれ。弘前大理学部で物理学を学びながら競技スキーに打ち込む。卒業後、イオンに入社。2008年、イオンを退社し、家業に入る。今月1日、父の跡を継ぎ、尾半ホールディングス社長に就任。

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