「震災10年 あしたを語る」 認定NPO法人「冒険あそび場―せんだい・みやぎネットワーク」理事 根本暁生さん 子ども癒やす身近な場必要

根本暁生さん

 東日本大震災の惨禍の中、死の淵、絶望の暗闇に立った。今、ある人は生きる人たちの道を照らし、ある人は喜びをもたらす。再起まで一本道ではなかった。かき分け、つまずき、たどり着いた10年の物語。

 <東日本大震災の発生時は指定管理する仙台市海岸公園冒険広場(若林区)で大きな揺れを感じた>
 入り口に近い管理棟にいた。すぐに建物外に出たが、立っていられなかった。周りを見ると木々が大きく揺れ、駐車場のアスファルトに亀裂が入っていた。2008年に仙台市に来て以来、経験したことのない揺れ。宮城県沖地震への備えが叫ばれていたため「ついに来たか」と思った。
 10年2月のチリ大地震津波を踏まえ、津波が予想される大地震の際は「(来園者に)すぐに逃げてもらう」と申し合わせていた。強い揺れが収まると、サイレンが鳴った。スタッフ3人で避難誘導を始めた。
 発生当時の来園者は5組20人。冒険広場から(西に約2キロ離れた)内陸にある仙台東部道路を目指し、避難を急ぐように手分けして呼び掛けた。幸い、来園者は全員無事だった。

 <自身も冒険広場を離れようとした午後3時10分ごろ、地元・井土地区の住民3人がやって来た>
 私とスタッフ1人が外へ避難しようとした時、住民が逃げ込んできた。「この周辺で、ここが一番高い」と。(津波が来るまで)時間がないから広場の丘に逃げるという。一緒に外へ避難しようと促したが、3人の決意は固く、スタッフと共に残ることにした。
 まずは3人に冒険広場で一番高い場所に上がってもらった。展望台がある海抜15メートルの小高い丘だ。スタッフと防寒着や救急箱、菓子など食料をリヤカーに載せ、展望台に向かった。途中で津波が押し寄せて来るのが分かった。
 海の様子は視覚的には分からなかったが、バキバキという音がした。海岸防潮林のマツが倒れる音だったと思う。リヤカーをほっぽり出し、展望台に駆け上がった。
 冒険広場に津波が到達したのは午後3時55分。7~8メートルの津波が、丘の周辺だけを避けるように広場一帯を襲った。管理棟も濁流にのまれた。駐車場の車やバイクも流された。津波があれほど巨大な規模になるとは思ってもみなかった。
 住民の1人が「この辺は壊滅だあ」と声を詰まらせた。一歩間違えたら津波にのまれていたかもしれない。とにかく、この場所から離れないようにしようと話し合った。
 (しばらくたって)水が引いたのを確認し、展望台を下りた。「5人 ヒナン ブジ」という文字を地面に石で刻み、助けを待った。5時10分ごろ、上空にヘリが現れ、陸上自衛隊霞目飛行場(若林区)に運ばれた。ヘリは当初、荒浜小(同)に向かう予定だったが、十分な着陸スペースがなく、1人ずつつり上げるしかなかったため、すぐに救助できる場所として、冒険広場を選んだようだ。

 <震災直後の先行きが見えない中、気になったのは子どもたちだった>
 冒険広場をどうするか、すぐには考えられなかったが、震災発生1週間後の理事会で「災害時こそ、子どもの心のケアが必要だ」と確認した。近くの避難所では子どもの居場所を求める声も耳にし「遊び場をつくろう」と動きだした。
 4月中旬、六郷小(若林区)に相談したところ「ぜひやってほしい」と快諾を得た。5月1日に校庭で「六郷あそび場」を開催。冒険広場にあったブルーシートやロープ、金づち、のこぎりなどを持ち込み、子どもたちに自由に遊んでもらった。ブランコや木登りも楽しんだ。思い思いの時間を過ごすことで、子どもが癒やされていくと思った。
 <「あそび場」を通じて、震災と向き合う子どもたちの変化に気付いた>
 夏休みになると、子ども同士で震災の話をするようになった。「津波は見なかった」「見てないの?」という感じ。それまで震災の話を避けてきたんだと気付かされた。家族や身近な人が犠牲になった子もいる。誰にも語れないまま思いを抱えていることがある。話すタイミングは、押し付けてはいけないと思った。
 震災発生から1年が過ぎると、次第に話題が変わってきた。仮設住宅で暮らすストレスもあったようだ。震災から5年が経過した16年ごろは学校の統廃合が話題になったが、一緒に遊んでいるうちに心を通わせ、互いに安心感を得ていたようだ。
 <宮城野区、若林区、岩沼市の約20カ所で遊び場を提供する活動を続けた。冒険広場は18年7月にようやく再開にこぎ着けた>
 子どもたちの声が響いてうれしかった。震災前に遊びに来ていた子どもが大人になり、また遊びに来てくれた。「思い出のある冒険広場が再開して良かった」と言われたのが忘れられない。時間はかかったが、みんなが集える場所を復活できたと感じた。
 ただ、復興途上の周辺を眺めると手放しでは喜べなかった。複雑な気持ちを抱えながら、来園者に伝えようと心掛けたのは震災の教訓。広場内に津波で流れ着いた木々を展示し、管理棟には津波到達時刻で止まった時計を飾った。自分を含め5人の命を救った丘は、最大700人が逃げられる「避難の丘」に生まれ変わった。
 震災前、冒険広場には年間17万~18万人が訪れていた。再開後の19年度は約15万6000人が来園した。「海に近くて行けない」という声も聞いていたが、ふたを開けると大勢が来た。
 一方、冒険広場以外の活動は再開後もほそぼそと継続した。遊び場を利用したいが「沿岸部に足が向かなくなった」というケースもある。沿岸部の今を知ってもらう拠点になればいいとの思いもあった。震災後は地域住民と話す機会が増えた。この10年、いろんな思いを抱き続けている。大事なことは、地域にとって冒険広場がどんな存在であればいいかということだろう。

 <震災発生から10年が過ぎた今、新型コロナウイルスの感染拡大が影を落としている>
 コロナ下で遊具やキャンプ場の利用を制限することもある。再開後も重視する遊び場の巡回活動も控えている。厳しい状況だが、広場の役目を考える機会になった。
 冒険広場は子どもが自由に遊ぶことを大切にしている。身近な場所で自由に工夫して遊んだ経験は子どもの生きる力を育む。昔の子どもは竹を切って釣りをしたり、川遊びをしたり、自然の中で遊んでいた。どこに何があるか、誰が住んでいるかも知っていた。そうした経験が、大人になり、いざというときに何をすべきか考える力になる。自然災害への対応も同じだ。災害時は、その時々で何ができるか考えることが重要になる。子どもたちが生き生きと育つきっかけの場所として、冒険広場が「あって良かった」と思われる存在でありたい。
(聞き手は布施谷吉一)

[ねもと・あきお]1972年、東京都生まれ。東京都立大大学院都市科学研究科修了。学生時代の95年に阪神・淡路大震災の救援活動に携わり、冒険遊び場づくりの活動と出合い、東京・世田谷区の遊び場事業に関わる。2008年、仙台市海岸公園冒険広場の運営に参加し、現場で遊びを見守る「プレーリーダー」となる。広場を指定管理する認定NPO法人「冒険あそび場―せんだい・みやぎネットワーク」(青葉区)の理事を務める。

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