「震災10年 あしたを語る」 第2管区海上保安本部職員 井上昭義さん 新工法採用し灯台早期復旧

井上昭義さん

 東日本大震災の惨禍の中、死の淵、絶望の暗闇に立った。今、ある人は生きる人たちの道を照らし、ある人は喜びをもたらす。再起まで一本道ではなかった。かき分け、つまずき、たどり着いた10年の物語。

 <第2管区海上保安本部(宮城県塩釜市)に入庁して約30年間。ほとんどの期間、灯台など航路標識の整備や管理に携わってきた。東日本大震災後は被災した標識の復旧に取り組んだ>
 他管区職員の応援を受けて被害調査に当たり、2管本部が管轄する太平洋側の航路標識251基のうち、半数以上の129基の被災が判明した。停電や灯器の損壊による「消灯」など被害が軽い標識も多かったが、55基は倒壊や傾斜といった甚大な被害を受けた。
 本格的に復旧計画の作成に取り掛かったのは、2011年6月ごろ。同年7月に岩手県大船渡市の大船渡港を訪れると、港の入り口にある防波堤の先端に設置されていた「防波堤灯台」が防波堤ごとなくなっていた。津波の威力に衝撃を受けた。

 <復興事業が同時進行し、航路標識復旧工事の発注では入札不調が頻発した>
 港湾や道路、住宅の工事が各地で膨大に発注され、海保の入札への参加を見送る建設会社が多かった。入札できる会社を東北以外に広げたほか、発注単位を1基ではなく隣接する2基を組み合わせるなどした。
 <資材不足や人手不足にも悩まされた>
 宮城県女川町の江島にある陸前江島灯台の復旧では、岬の先端などにある「沿岸灯台」で初めて繊維強化プラスチック(FRP)のパネルで建設する工法を採用。沿岸灯台で最初となる12年7月に再建した。当時は資材や技術者が不足し、早期復旧のためにコンクリート造から工法を変えた。工場でパネルを作り、現場で組み立てる方式で工期短縮や作業員縮減もできた。
 女川港の防波堤灯台2基も苦労した。灯台は建設する港の岸壁で造るのが一般的だが、岸壁が復旧工事中の上、消波ブロックを造っていて空きがなかった。周辺の港も同様で、塩釜港で灯台を製作し、女川まで船で運搬した。道中の波の予報を確認しながらの移動となり、到着するまで気が休まらなかった。

 <航路標識は昨年10月で全ての復旧が終わった>
 20代で青森県外ケ浜町の竜飛埼灯台に1週間交代で滞在する灯台勤務を経験した。漁師からは「灯台さん」と呼ばれ、灯台は海の安全を見守るとともに地域のシンボルだと学んだ。
 震災後は、港の復旧が進んで漁船の水揚げや貨物船の入港が再開される中、復興を後押しするために早く灯を取り戻したいという使命感で復旧作業に打ち込んだ。10年の節目で達成でき、安堵(あんど)している。
 今後は灯台を観光スポットとして活用してもらいたいと考えている。岩手県大槌町にある蓬莱(ほうらい)島の大槌港灯台は、地元住民に募集したデザインを基に、ろうそくに似た形状で復旧させた。灯台は風光明媚(めいび)な場所にあり、見た目も楽しめる。地元の自治体と連携し、灯台を観光資源として盛り上げていきたい。
(聞き手は高橋公彦)

[いのうえ・あきよし]1971年、青森県鰺ケ沢町生まれ。五所川原農林高卒。90年、第2管区海上保安本部入庁。青森海上保安部(青森市)、海上保安庁(東京)などを経て2004年2管本部交通部整備課、20年4月から同交通部企画課長補佐。

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