「震災10年 あしたを語る」 NHK仙台放送局アナウンサー 杉尾宗紀さん 命を守る情報、ラジオで発信

杉尾宗紀さん

 東日本大震災の惨禍の中、死の淵、絶望の暗闇に立った。今、ある人は生きる人たちの道を照らし、ある人は喜びをもたらす。再起まで一本道ではなかった。かき分け、つまずき、たどり着いた10年の物語。

 <東日本大震災の発生当日は、夕方から泊まり勤務の予定だった>
 仙台市内の自宅マンション4階にいて、激しい揺れで床にはいつくばった。取材経験がある阪神大震災のことが頭に浮かび、市内を見て回った。ビルがつぶれたりするような被害がなくてひと安心した。
 局に着いたのは午後4時前。テレビを見たら、ちょうど若林区荒浜に津波が押し寄せてくる空撮映像が流れていた。頭の中が真っ白になった。2日前の地震で津波のことを伝えていたのに何も分かっていなかった。
 <午後10時前から翌朝までラジオを担当。東京発のニュースを遮り、3分フライングしてスタートした>
 「午後9時57分、仙台からお伝えします」。ところが始めてみると、読むべきニュース原稿が全然入ってこない。東京のラジオで国際放送した阪神大震災の時に原稿が積み上がっていたのとは対照的だった。
 届くのは宮城県災害対策本部や県警の発表原稿、気仙沼に近づいた中継車からの「空が赤い」という報告ぐらい。「若林区荒浜で200~300人の遺体発見」という原稿は、「裏を取って」と一度突っ返した。

 <何を伝えたらいいのか、もがき続けた夜だった>
 局には、せんだい泉エフエム放送アナウンサー(当時)で防災士の阿部清人さんが駆け付けていた。深夜まで「下着とシャツの間に新聞を入れると暖かい」などと話してもらった。
 あとは聴いている人に呼び掛けるしかない。朝になれば救援も入る。「冷たくつらく、真っ暗な夜、あと3時間で日が昇ります。力を合わせて乗り切りましょう」。伝えても伝えても時間が進まない、長い夜だった。
 <生活情報の統括役を任された数日後、石巻市大川小の被害を知る>
 モダンな校舎と雄大な北上川の景色が溶け合い、ゆったり過ごすお気に入りの場所だった。被害のメモを読み、言葉を失った。
 津波が来ていたのに、私自身は命を守る報道ができなかった。土地勘のあるローカルアナウンサーこそ、「気仙沼逃げろ! 石巻逃げろ!」と、避難を呼び掛けなければならなかった。今も大川小には行けていない。

 <2012年に古里の宮崎放送局に異動したが、志願して15年に仙台に再赴任。NHKラジオ第1の情報番組「ゴジだっちゃ!」(月-金曜午後5時5分~6時)パーソナリティーを務める>
 震災時に局に被災地から情報メールが来なかった反省から、12年に始めた番組では県内外60人の「だっちゃ通信員」との双方向のやりとりを大切にしている。旬の話題をはじめ、19年の台風19号豪雨の時は丸森や角田の通信員から現地情報を発信できた。
 日頃からの地域とのネットワークが、いざという時に生きる。過酷な災害ほどラジオが重要だ。あの日、何もできなかったリベンジとして、「次」への備えを愚直に伝え続けたい。
(聞き手は高橋鉄男)

[すぎお・そうき]1957年、宮崎県生まれ。早大卒。83年NHK入局。沖縄放送局やラジオセンターを経て2007年に仙台放送局に赴任。12年6月に宮崎放送局に異動し、15年3月から再び仙台放送局勤務。17年2月の定年退職後も同局アナウンサーとして活躍する。

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