「あの日から」第13部 芽吹き(6完)石巻・永沼悠斗さん 教訓次代へ 後悔伝える

「10年を節目にしない」と題した震災フォーラムで意見交換する永沼さん=5月23日、石巻市のMEET門脇

 「自分はなぜ生かされたのか」。そう考えるようになって、母校や地域のことを深く知ろうと思った。

 石巻市の団体職員永沼悠斗さん(26)は語り部としていつも「人生最大の後悔」を伝えている。

 同市長面地区出身。東日本大震災の津波で大川小2年だった弟(8)を失った。自宅は流され、祖母(65)と曽祖母(88)=年齢はいずれも当時=も犠牲になった。

 震災2日前の3月9日にあった地震。危険を感じて海沿いから逃げたのに、そのことを家族と話さなかった。避難する場所を確認し合わないままあの日を迎えてしまった。

 3月11日、石巻高1年の授業中に地震に襲われた。高校に5日間とどまった。6日目の朝、自分も通った大川小に父親と一緒に向かった。

 歯を食いしばり、むごたらしい現実を見た。教職員と児童が避難で目指した北上川の堤防道路「三角地帯」近辺で捜索していた人から、既に弟の遺体が見つかったと聞いた。なんで。言葉も出なかった。あまりにも現実味がなかった。

 一緒にキャッチボールをできるようになったばかりだった。かわいくて、何事にも一生懸命。成長を楽しみにしていた。

 その後も悲報が続く。祖母は共働きの両親に代わり身の回りの世話をしてくれた。曽祖母は野球部での活躍を誰より喜んでくれた。

 慣れない避難所生活を送りながら、遺体安置所に通い続ける苦しい日々。「家族を守りたい」と子どもなりに気を張った。立ち止まって悲嘆に暮れる余裕すらなかった。

 大学に進んだ2015年6月20日、携帯が鳴った。小学校の担任の恩師からだった。

 「きょう、弟の誕生日だよね」

 覚えてはいた。気遣ってくれた声に胸が詰まった。特別な日として過ごすことを何となく避けていた。

 「今まで家族の死に向き合っていなかったと気付かされた」

 電話口で、自分でも驚くほど泣いた。震災後、初めて流れた涙だった。

仕事と両立 挑戦続ける

 少しずつ、自分に何ができるのか探し始めた。

 語り部として予期せぬ形で第一歩を踏み出した。16年秋、「大川伝承の会」の語り部活動を見学しようと大川小に行った。遺族の一人に誘われ、学びやの思い出をしゃべった。

 2年生の教室から眺める中庭の風景が好きだったこと、廊下が長くて掃除に手を焼いたこと。児童と教職員計84人が犠牲となった「悲劇の場所」として多く語られてきたからこそ、母校の「震災前」の記憶を残したい。それが卒業生である自分にできることだと思えた。

 伝承の会で活動を始め、4年半。人前で話した回数は数え切れない。震災を「自分ごと」にしてほしくて言葉に思いを乗せた。

 同時に、震災報道に対する違和感も抱いてきた。

 悲しみから立ち上がる物語を強引に描かれるなど、伝えたい思いと報じられる内容との隔たりに悩む仲間は多い。自身も似た経験を持つ一人だった。

 記者と取材される側が腰を据え、話し合う場をつくる活動にも携わった。今年5月、取材を受けた人らを対象にしたアンケートの結果を報告した。「震災を知らない次世代に伝えるために、一緒に協力していきたい」と呼び掛けた。

 この春、地元の石巻商工信用組合に就職した。

 これまで、同年代の語り部が就職や進学で活動を諦める姿を見てきた。一度辞めた仲間や、時間がたってから震災を伝えたいと思う若者が、語り始めやすい環境があればいい。

 まずは自分が、仕事と両立する姿を見せたい。

 「100年後に震災の出来事が忘れられても、命を守る教訓やノウハウは紡がれていくはず。災害で助かる人を増やすため、今、続けることに価値がある」

 未来をひらく-。大川小の校歌にある言葉を胸に、挑戦するつもりだ。
(柴崎吉敬)

 「東日本大震災10年 あの日から」は今回で終了します。

高知県から旧大川小を訪れた中学生に、永沼さん(右)が命を守る大切さを伝えた=2018年8月、石巻市
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 東日本大震災を経験した一人一人に、それぞれの震災があり、災後の歩みがある。あの日からの軌跡をたどる。

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