<今こそ ノムさんの教え(7)>「俺の花だよ月見草」

 「野村克也から野球を取ったら何も残らない。おれは弱い男」。野村さんは自分の心の弱さを隠さないどころか、むしろさらけ出した。負い目を認め、乗り越えようとしながら人生を切り開いてきたからだ。華やかな舞台に立つスターは当然、もがき苦しむ姿を見せたくない。だが逆を行った。その悲哀と情念に満ちた演歌的な野球人生を集約した今回の語録「俺の花だよ月見草」。ちょうどこれから見頃を迎える花だ。

最終戦を終え、東北楽天の野村監督が、引退するソフトバンクの王監督(右)に花束を贈った=2008年10月7日、Kスタ宮城(当時)

 「監督、そこまで弱い自分をさらさなくても…」。ぼやきを聞き慣れている番記者さえも心配になったやりとりがある。

 東日本大震災から2年前、2009年3月11日。兵庫県明石市でのオープン戦開始前のベンチ、あるニュースで盛り上がっていた。1985年の阪神優勝フィーバーでファンに大阪・道頓堀川へ投げ落とされたカーネル・サンダース人形が、24年ぶりに水中から救出されたらしい。

 世紀をまたぐ明るい話題に野村監督も笑った。「日本も平和だなあ。そんなニュースで騒ぐなんて」。しかし梅の花咲く早春の多幸感のせいか、73歳は急にたそがれた。「カーネルおじさんと同じくらい話題になるかな、俺が死んでも…」

 記者たちは内心困った。「まさか人形に嫉妬するなんて…」。ほのぼのムードが一変。歌手森田童子さんの名曲「たとえばぼくが死んだら」のような暗く、はかない空気が漂い始める。

 「俺が死んだらみんな、お別れに来てくれるか? 監督じゃなくなっていても…」。野村監督はさみしげに言った。「そりゃ行きますよ、何言ってるんですか、監督!」。記者たちが口約束すると、ようやく場は和やかさを取り戻した。

 ここまでのケースはまれだが、野村監督は時々、死を意識した。番記者との雑談が唯一心を許せるひとときだったせいか、ふと魔が差すように「弱さ」をうかがわせた。孤高の名将ゆえに「孤独だ」ともぼやいた。コーチや選手を引き連れて食事に出掛ける親分的な発散方法も自制していた。

 「派閥をつくり、えこひいきしているように思わせたくない。南海(現ソフトバンク)選手だったころの俺が嫌な思いをしたから」。振り出しは1954年。半世紀以上前からなれ合い的な「群れ」を好まなかった。隙がない知将の監督像も、内面の繊細さを隠すよろいの役割を果たした。

 野村さんは承認欲求が特に強かった。

 父親を太平洋戦争で失い、父性を知らず育った。南海ではプロの世界での生みの親、鶴岡一人監督に恩返ししようと努力した。しかし戦後初の三冠王に輝いても認めてもらえず、欲求不満は募った。

 「鶴岡さんにはボロクソにけなされ、2度しかほめてもらえなかった。俺は鶴岡派ではなかった」と恨み節を言い続けた。選手兼任監督として戦術的な「シンキングベースボール」を導入した。鶴岡監督の精神論指導への反発からでもあった。「見返してやる」と情念を燃やし、どんどん学問的に野球を究めていく。

 「ON」こと巨人の王貞治、長嶋茂雄に肩を並べる、当時の球界の顔になった。ただ全国的なON人気は別格。彼らを日の当たる場所で大きく花咲く「ヒマワリ」と呼んでうらやんだ。

 翻ってパ・リーグ選手は球宴や日本シリーズに出なければまずテレビと無縁。成績面では球界の最多本塁打記録をリードしてきた野村さんだが、通算600号到達で74年、王に先を許す。

 75年に600号到達した記者会見で野村さんは「月見草」を自称する。日本海を望む京都・丹後地方で暮らした少年時代、苦しい家計を助ける仕事帰り、暗がりで見た小さく黄色い花に、プロの自負を重ねた。

 「自分は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草。自己満足かもしれないが、そういう花があってもいい。ずっとその思いを支えにしてきた」

 その後何年たっても「王が俺の価値を落とした」と偽悪的に言った。「監督としての勝負で勝つ」と内なる対抗心を燃やしつつ。そしてヤクルト監督として93、95、97年と3度日本一の座に就く。圧倒的な戦力を誇る巨人を「弱者の戦術」で上回った。その頃は歌手として演歌CD「俺の花だよ月見草」まで出すほど、日なたの存在になった。

 対するONは一度は巨人監督の座を追われ、後れを取る。長嶋が巨人第2次政権の94年と2000年、王はダイエー(現ソフトバンク)に移ってから1999年と2003年にようやく日本一になった。

 野村監督の勝利への執念は験担ぎにも及んだ。勝ち運があると思った時は、遠回りでも通勤路を変えず、10日以上も同じ下着をはき続けた。試合前には来客からの名刺を拒んだ。渡されて敗れたことがあり、専属広報が代理で受け取った。

 時効だろうが、07年に球団が報道自粛を要請する出来事があった。「ウンを落としてはいけない」と試合中の用足しを我慢する野村監督が、ある日限界を超えた。試合後、報道カメラの前で汚れたユニホームを苦笑いして見せた。さすがに記者は皆、心から笑えなかった。報じれば「老い」まで露呈する。一幕は当然お蔵入りになった。

 かようにサービス精神が行き過ぎることはままあった。確かに適切さを欠いた言動だ。注目されてこなかった過去の反動として痛々しく思える時もあった。しかし、理想と現実の間で苦しみながらも、あるがままの心で生きようとし続けた浪花節的な生き様は、東北人の情に訴えた。だから「月見草」は「ヒマワリ」同然に愛された。

 昨年2月野村さんが他界した直後に新型コロナウイルスが拡大。お別れ会は延期された。番記者の口約束は空手形になっている。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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