高畑勲、宮崎駿両監督との出会い<アニメージュとジブリ展 鈴木敏夫さんに聞く・上>

「アニメファンが隅に追いやられていたので、みんなが見るようにできないか考えた」とアニメージュ編集時代を振り返る鈴木さん=東京都渋谷区

 「アニメージュとジブリ展 一冊の雑誌からジブリは始まった」(実行委員会主催)が、宮城県石巻市の市複合文化施設で開催されている。スタジオジブリ(東京)誕生のきっかけとなった日本初の月刊アニメ専門誌「アニメージュ」。編集者として活躍したジブリの鈴木敏夫プロデューサー(72)が河北新報社のインタビューに答え、高畑勲、宮崎駿両監督との出会いや、宮城県登米市出身の漫画家石ノ森章太郎さんとの交流、東日本大震災の被災地への思いなどを語った。
(聞き手は生活文化部・長門紀穂子)

 <鈴木さんは「週刊アサヒ芸能」などを経て1978年、アニメージュの創刊メンバーとなる。ジブリに移籍するまでの約12年間、編集の中枢を担い、アニメブームを支えた>

 アニメージュ初代編集長の尾形英夫さん(故人、宮城県気仙沼市出身)に「息子がアニメファンだから雑誌を作りたい。敏夫君、頼むよ」と言われて始めた。本当に面白い人で、全部任せると言って校了紙を読まず、完成した本に文句をつける。これが作業途中で言われるより効果があった。任せるなら本当に任せないといけないと学んだ。

 僕らは「好きじゃないからやりたくない」というのが許されない世代。仕事をするからには、プロとして何でもやる。僕にとってはアニメージュもジブリも同じ。アニメが好きで雑誌を作っていたら、うまくいかなかっただろう。

 <アニメージュはアニメの作り手にスポットを当てたインタビューマガジン。鈴木さんが高畑、宮崎両監督の存在を知ったのもこの頃>

 創刊号で高畑監督の映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68年)を取材しようと電話すると、高畑さんが取材に答えたくない理由を延々と説明しだした。そんな人に出会ったことがないから「ちょっと変な男だな」と思った。

 1時間後、散々しゃべった高畑さんが「僕の隣に宮崎駿という人がいる。彼が別の意見を持つかもしれない」と電話を代わった。すると、僕が話す前に宮さん(宮崎監督)がひと言「あらましは聞きました」。30分ほど話したが結局、OKしてくれなかった。

 その直後、偶然にも池袋でホルスの深夜上映を見た。漫画映画なのにベトナム反戦がベース。現実の世界で起きていることを基に作っているのに驚いた。(その後の取材を機に2人の下へ足しげく通い「風の谷のナウシカ」誕生につながったのは)作品が面白く、内容に興味があったからだ。

 <東日本大震災後、ジブリは上映会などを行い、被災地支援を続けてきた。東京から被災地をどう見るか>

 復興のスピードが遅い。国は何をやっていたのか。ハード、ソフト両方でもっと違うことができたのではないか。

 ジブリでは震災後10年間にわたって、被災地の子どもたちや施設へクリスマスプレゼントを贈ってきた。続けることに意味があり、習慣化するのが大事。日頃から被災地のことを考えていないと準備できないことだ。これからもできる範囲でやっていきたい。

[すずき・としお]1948年名古屋市生まれ。慶応大文学部卒。72年徳間書店入社。「週刊アサヒ芸能」「アニメージュ」などを経てスタジオジブリへ移籍。映画「となりのトトロ」などのプロデューサーを務める。著書に「天才の思考 高畑勲と宮崎駿」(文芸春秋)など。

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