<まちかどエッセー・小川直人>手で見ることを考える

 おがわ・なおとさん せんだいメディアテーク学芸員。1975年仙台市生まれ。東北大大学院教育学研究科修了。メディアテーク開設準備段階から携わり、映像文化を中心にアーカイブや図書館に関する事業に取り組む。宮城大特任准教授。個人でも上映会や本の制作などに関わる。青葉区在住。

 私は大学で講義を一つ持っている。映像文化の理論や批評に関するものだ。古今東西の映画など映像作品を見せながら、それらについて解説していくのが毎回の基本的なスタイルだが、講義期間中に簡単な作品制作も課すことにしている。たとえば「会話している場面を表した1分間の映画を撮ってください。ただし、新型コロナ対応のこともあるので、本当に会話してはいけません」というものである。学生たちには、試行錯誤はしてほしいけれど必ずしも上手である必要はないと事前に伝える。なぜなら、この課題は作家を養成する芸術学校のそれとは違うから、と。

 今日の私たちは映像に囲まれた生活をしていると言える。映画を見るために映画館に自ら赴くのはもはや儀式的な行為とすら言えるもので、自宅で配信を見るほうが多いだろう。それどころか、黙っていても映像のほうから私たちに迫ってくる。街を歩いていれば無数のモニターからCMが流れ、わずかな待ち時間にはスマートフォンで動画を見たり、時には撮影してSNSに公開したりすることも珍しくはない。しかし、それらの映像がどのように創られているのか、語彙(ごい)も文法も学ぶことは極めて少ない。私たちを取り囲む映像から一歩身を引いてそれについて考えてみるひとつの方法が、簡単なものでも自分で作ってみることであるというのが、この課題を出す真意なのである。

 毎回、学生たちは個性的な作品を作ってくる。スマートフォンで撮影から編集までできる時代なので、意外なほど軽々と課題をこなすようだが、やはり普段見ているもののようにはいかないことに気がついてくれる。一見するとごく簡単な場面でも、そこにはさまざまな工夫が凝らされていることを知るのだ。講義で私がくどくど話すよりもよほど理解が深まる。

 映画史上もっとも重要な作家の一人であるJ・L・ゴダールは、かつて、目を失うか手を失うか選択せよと言われたら、自分は前者を選ぶと語ったことがある。映画作りにおいては、見えないことよりも手が使えないこと(フィルムを切り貼りして編集すること)のほうが困るからだそうだ。見ることばかりに勤(いそ)しんでいる私たちも、時には手を使って映像に触れてみてはどうだろう。(せんだいメディアテーク学芸員)

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まちかどエッセー

 仙台・宮城在住の執筆者が、それぞれの活動や暮らしで感じたことをつづります。

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