「震災10年 あしたを語る」 元栗原市長 佐藤勇さん 海外医師団の派遣仲介に力

佐藤勇さん

 世界を覆った不条理な悲しみ。人々は人間の力を信じ、未来を見詰め、踏みだした。歩みを重ねて10年。東日本大震災を語ることは癒やしや励ましだった。困難を乗り越える力だった。悲劇を繰り返さない誓いであり、連帯だった。だから、われわれは語り続ける。

 <栗原市長として宮城県南三陸町へのイスラエル医師団の派遣を実現させた>
 2011年3月20日、駐日イスラエル大使から南三陸町への同国医師団派遣の可否を間接的に打診された。その直後、外務省の担当課長から相談の電話が入った。前日の19日に南三陸町の被災状況を見ていた。町内の公立志津川病院は津波で医療に必要な機材をほとんど流されていて、医療支援の必要性を強く感じた。
 関係省庁に連絡してみて政府として受け入れを了承したことが分かった。ただ「宮城県の了解を取ってほしい」と条件を出された。

 <外国人医師団の受け入れは過去にほとんど例がなく、県との交渉は難航する>
 佐藤仁町長にも派遣依頼を受けたが、県の医療関係部局は消極的だった。東北大医学部が大勢の医師を被災地に送っていて、外国人医師団が来て混乱が生じることを懸念していた。
 人命に関わる問題で一刻を争う。21日、県庁に直接説明に赴いた。市役所に戻ってからも県幹部らと電話で交渉を続けた。その日の深夜、現場の日本人医師の指示に従うなど条件付きで何とか了解が取れた。

 <イスラエル医師団は3月29日から約2週間、医療支援に従事する>
 医師団は総勢約60人。栗原市は、宿泊場所として交流施設エポカ21を用意した。南三陸町の人は最初、外国人医師を不安に思っていたが次第に受診するようになった。医師団は、あばら骨を折った佐藤町長の治療、体調を崩した妊婦の栗原市の病院への搬送も支援した。
 町には医療に必要な機材が全く足りなかった。医師団にエックス線撮影や血液検査など機材類の無償提供をお願いすると、二つ返事で了承してくれた。博愛の精神に感服した。譲り受けた機材を使い、志津川病院の臨時診療が始まる。
 撤収前夜、医師団に感謝の言葉を伝えた。お礼にと(イスラエルで有名な歌の)「黄金のエルサレム」を歌った。みんな輪になって一緒に歌ってくれて、うれしかった。40年越しで恩返しができたと感じた。

 <20代の頃、イスラエルに1年間留学して、集団農場の「キブツ」を研究した>
 日本の農業に、集落営農が必要になると考えた。半年間、キブツに住み込んで農作業を手伝った。その後、アジア・アフリカ研究所に半年間在籍。あの時に受けた恩をいつか返したいと思っていた。
 震災の数年後、ある式典で東北大総長だった里見進氏と顔を合わせた。「イスラエルの医師団に協力して、東北大としても良かったと思っている」と感謝された。あの時はいろいろ大変だったが、苦労が報われた気がした。
(聞き手は門田一徳)

[さとう・いさむ]1942年、兵庫県三田市生まれ、立大卒。大石武一衆院議員秘書、イスラエル政府の「アジア・アフリカ研究所」研究員などを経て、83年宮城県議初当選。連続5期務め、01年から03年まで議長。05年、初代栗原市長に当選し、3期務めた。

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