「震災10年 あしたを語る」 気仙沼・大島医院医師 森田良平さん 被災の故郷で治す医療貫く

森田良平さん

 世界を覆った不条理な悲しみ。人々は人間の力を信じ、未来を見詰め、踏みだした。歩みを重ねて10年。東日本大震災を語ることは癒やしや励ましだった。困難を乗り越える力だった。悲劇を繰り返さない誓いであり、連帯だった。だから、われわれは語り続ける。

 <千葉県の病院で勤務中、東日本大震災が起きた>
 揺れが大きく、電気やエレベーターが止まり、院内はパニックだった。2階の渡り廊下と建物の間から煙が上がっていた。直感的に、海に近い気仙沼市の実家も「津波でやばいな」と思った。家族の無事を知ったのは1週間ほどしてから。知人を通じてだった。

 <津波や火災に襲われる気仙沼の映像を見てショックを受けた。初めて帰郷したのは1年後だった>
 直後は千葉もガソリンが手に入らず、気仙沼にたどり着けるか不透明だった。職場を離れる後ろめたさもあった。でもそれは言い訳で、めちゃくちゃになった故郷を見るのが怖い、遠ざけたいというのが本音だったのかもしれない。
 すごく後悔している。日本で一番大変だった東北、気仙沼にすぐ駆け付け「何かできることはないか」と聞いて回るべきだった。行動を起こせなかった自分は駄目。今、同じ状況になったら迷わずに飛び込む。

 <2017年、気仙沼・大島で唯一の医療機関、大島医院の医師が辞めたのを受け、後任に就いた。医師不在となった離島を救う英雄のようにも報じられた>
 気仙沼の開業医だった父親のように、いずれ生まれ育った土地の力になりたいという気持ちはずっとあった。だから「故郷を救うために」というストーリーありきの取材や報道には少し困惑した。生活への不安もあり、気仙沼を思う気持ちをなかなか行動に移せなかったのだから。
 自分がしていることは罪滅ぼしだ。あの時、ここにいなかったという事実は消えない。今も胸に引っ掛かっている。一人でも多くの患者を治し、地域に安心を与えることで自分の心の穴も埋めていきたい。

 <震災当時3000人以上が住んでいた大島は津波で孤立したが、本土と結ぶ気仙沼大島大橋が19年4月に開通した>
 来院者が減るかと思ったが、あまり変わらない。利用者と信頼関係を築けた証拠かもしれない。
 大島の人たちには、島の医療機関はあくまで緊急時に一時的に利用するというイメージがある。それを変えたい。医者は職人である以上、患者を治してなんぼ。橋を使って本土から患者が訪れるくらい、治す医療を目指していきたい。

 <震災を経て、医療が変わるべき面は>
 震災時、生きるか死ぬかの人を救おうと多くの医師が被災地に入った。だが、実際には救命救急よりも検視のニーズの方が高かった。医師も融通が利かず「それは自分たちの仕事じゃない」と役割をシフトできなかったと聞く。救命センターにいた者として恥ずかしい。
 大災害の時には、我が強い医師たちを束ねる指揮系統が必要だ。実態に対応する医療体制を構築することが、未曽有の災害を経験した社会の責務だ。
(聞き手は鈴木悠太)

[もりた・りょうへい]1964年、気仙沼市生まれ。独協医科大卒。97年に日本医科大付属病院高度救命救急センター入局。千葉県の個人病院などを経て、2017年6月から現職。診療科目は内科と整形外科。大島小・中の学校医も務める。

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