新型コロナウイルス禍での東京五輪が幕を開けた。「緊急事態宣言下で、無観客にして開催する意味とは何なのか」「世界から変異株を集めているようなもの」。依然として反対論がある。そんな中にあっても、アスリートは果たして自分本位の戦いをしているのだろうか。コロナ禍で見失われがちな価値観が今回の語録「世のため、人のため」。野村監督が人間の使命として伝えた考え方だ。
野村監督は記者に逆質問することがあった。
「おい、何のための人生か分かっているか」
「すみません、何となく生きちゃってます」
自分も含め大概は無自覚。明快に返答できない。
そして監督は「おい、おい『ペンは剣より強し』だ。影響力のある君らの仕事にも通じることなんだぞ。しっかり、自覚してもらわないと」とぼやく。その後、目を見開いて言う。
「世のため、人のために生きる。それが人間や」
この一言は野村流人生哲学の根幹だ。
春季キャンプのミーティング。いつも初日は野村監督が哲学者のように問答を展開した。「野球とは何だ」「人生とは何だ」
プロ野球選手は億単位の報酬、後世に残る名声がつかめる華やかな仕事だ。半面、実力がなければ簡単に立場を追われる弱肉強食の世界でもある。構造上、個人の成功を追求しがちになりやすい。チームと言っても個人事業主の集合体だからだ。ただそれを認めてしまってはあまりにもむなしい。そこで野村監督は独善的な考えを徹底的に断じた。
「成功は目的ではない。単なる結果だ。だから、お金を稼ぐため、自分が笑うために一生懸命やるのは本当のプロではない」
ならばプロ意識とは何かと返す刀で問う。やはり選手は困ってしまう。すると監督はこう論じる。
「プロはファンに勝利を見せ喜んでもらうために努力する。給料はファンから出ているんだ。だから自分の技術を高め、チームのために戦うことが巡り巡って自分のため、家族のためになる」
野球界には「球道即人道」という言葉がある。同様に野村監督もプロ生活は人生の縮図と考えた。楽があれば苦もある。長くても40歳を過ぎればほとんどの選手が終わりを迎える。当然、一人では生きられない。誰かとの関わりの中で生き、生かされている。だから「人生」の文字をホワイトボードに書き、テレビドラマ「3年B組金八先生」のように読み解いた。
「人として生まれる」
「人として生きる」
「人と生きる」
「人を生かす」
「人を生む」
最後に訴えた。「人生をどう生きたいか、どういう人間になりたいか。希望を抱くことがまず大事だ」
名選手になった門下生は皆、この自問を出発点に小さな努力を積み重ねた。
「世のため、人のため」は時を経てある名せりふを生む。
2011年4月29日、本拠地Kスタ宮城(当時)で東日本大震災後初めての公式戦後、満場のファンに選手会長の嶋基宏(現ヤクルト)は思いを吐露した。
「(震災からの)1カ月半で分かったことがあります。『誰かのために戦う人間は強い』ということです。東北の皆さん絶対に乗り越えましょうこの時を。向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはずです」
嶋はその前にも「見せましょう、野球の底力を」とスピーチして奮起を約束していた。しかしチームは11年5位、12年4位。ファンとの約束を果たせずに終わる。嶋は「スピーチをしなければよかった」と明かしたことさえあった。重荷に感じるあまり、周囲に「顔が暗い」「はつらつとしていない」と言われもした。
13年、抱き続けた被災地への思いが実を結ぶ。共に野村監督の教え子として過ごした田中将大とチームを初の日本一へと導いた。
「やっと肩の荷が下りた」。日本一が決定して嶋が田中と抱き合って思った時、ひそかに次なる希望の星が生まれていた。
東北楽天が初めて日本シリーズを制した11月3日、大船渡市猪川小の校庭にあったプレハブ仮設住宅。ちょうど12歳の誕生日を迎えた6年生は歓喜の渦をテレビ越しに感じていた。
「すごい、初の日本一だ」。少年は佐々木朗希投手(現ロッテ、岩手・大船渡高出)。6年後、高校生史上最速の163キロを誇る「令和の怪物」に成長し、プロ入りする。
佐々木少年にとって田中はずっとヒーローだった。津波で自宅や家族3人を失い、野球道具も周りに借りなくてはいけない時期があった。やっと手にした専用グラブには、田中と同じ黄色を選ぶほどだった。
13年、田中は24勝無敗という神懸かった働きをした。その堂々として勝利を諦めない、不屈の姿勢が佐々木の心に焼き付いた。「気持ちの在り方を尊敬する」。被災地の仲間とのプレーを望んで進学した大船渡高3年夏の岩手大会も、黄色いグラブをお守りのようにして甲子園出場を目指した。
だからこそプロ入りに際しても、生まれ育った被災地への思いを強くにじませ、決意した。「自分にしかできないことがある。活躍して支えてくれた地元に恩返しする。それが使命」
東京五輪が開幕した。稲葉篤紀監督の下、金メダルを目指すチームのけん引役に田中がいる。くしくも2人とも野村門下の優等生。金メダルを目指し、ウイルスに負けまいと示す戦いぶりが、またどこかで次なる希望を生み、連鎖していくだろう。
野村監督が存命なら彼らにこう言っただろうか。「今こそ『世のため、人のため』に輝け。それが使命だ」と。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)
[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。
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