<今こそノムさんの教え(11)>「ぼやきは元気の証し」

 「ID野球」「月見草」「生涯一捕手」「戦後初の三冠王」。数ある野村監督の代名詞や枕ことばの中で、最も人間性が伝わるのが「ぼやき」。ツイッターも定着していなかった頃、ひたすら記者たちの前で悩める心中をつぶやいた。時代の先を行っていたのかもしれない野村監督の今回語録は「ぼやきは元気の証し」。日常に疲れてぼやいたっていい。それこそが未来へと歩む人間だもの。

 「俺、もうぼやきをやめたい」。2008年春、野村監督が言い出した。取材対応をやめる意味ではなく、記者は一安心。「俺の談話を『…とぼやいた』って書くけれど、もうちょっと明るく、高尚な表現にしてくれよ」。監督は不満げに言った。

 監督の言い分に一理ある。人間性を反映しているとはいえ「ぼやき」は卑屈なイメージが伴う。野村監督だって現役時代はスターだった。巨人で国民的英雄の「ミスター」長嶋茂雄、「世界のホームラン王」王貞治に肩を並べた人だ。「人は他人からの評価で生きている」と指導しているとはいえ、レッテルを貼られるような不快感があった。

 「昔から決まって『愚痴の森、ぼやきの野村』と言われてきた。愚痴よりはまだ陰湿な響きがないかなとは思うが」。現役時代からのライバル森祇晶元西武監督を引き合いに出しながら、諦めて受け入れてきた。

 確かに野村監督に限っては「ぼやいた」と当然のように書いていた。記者には便利な表現だ。野村監督がいかに選手ら第三者を悪く言っても、最終的には一人称として個人の感情表現になる。たとえば「『あの投手がまた肘が痛いと降板を訴えた』と語った」と書く場合、最後を「ぼやいた」に変えるだけで少しだけ角が取れる。

 ただ言い換えが難しい。選択肢は「嘆いた」「ため息を漏らした」くらいだ。記者みんなが「監督、じゃあどう書けばいいですか?」と聞いた。後日、得意げな表情で監督が提案した。

 「『マンブー(mumble)』ってどうだ?」

 チームの通訳に「ぼやく」を英訳してもらったという。口ごもるという意味。お気に入りの様子だ。「これからは俺を『マンブーマン』と呼んで」と言った。

 過去にも同じように二つの案を出した。

 一つ目が「カニの念仏」。カニが口から泡を出すようにぶつぶつとつぶやくたとえだ。かわいげがある。

 二つ目が「壁訴訟」。相手がいないのに一人で不平を言う、という意味だ。むなしい雰囲気が漂う。

 結局、どれも定着しなかった。すると「仕方ない。やっぱり俺はぼやきでいいや。一番しっくりくる」と原点回帰した。そして最後は「ぼやき」を生きる原動力として力説した。「高い理想があるからぼやくんだ。日々の現実を戦っているからぼやくんだ。ぼやきは元気な証しなんだ」

 しかし同じ年の8月。本当に野村監督がぼやかなくなってしまった。

 試合後のインタビューを完全拒否。テレビで人気の「ノムさんのぼやき」コーナー用に待ち構えるカメラの前を素通りし続けた。ちょうど北京五輪開催中。翌年の監督契約延長にも注目が集まった時期だった。

 本人が理由を語らなかったため、4つの臆測が飛んだ。(1)前年の4位浮上から一転、最下位争いに逆戻りしたチームに心身とも疲れたか(2)面白い文句を考えるのに飽きたか(3)北京五輪報道に埋没するのを避けたか(4)球界随一の広報役として、存在の大きさを再認識させたいのか―。

 状況的に全部正解だった。監督は3年間指揮してきても、理想とほど遠い現実に虚無感を覚え、自分を見失いかけていた。

 空白期間は9月に終わった。1年の契約延長が見えた頃、野村監督はぼやきをやおら再開した。実は言う方も聞く方も、あるべきものがない違和感があった。

 「みんな、やっぱりぼやきが聞きたかっただろう。俺もぼやいてなんぼ。ぼやいているうちが花だと思ったわ」。野村監督はぼやきこそ人生の糧と言わんばかりに名調子を取り戻した。

 すると、ぼやぼやしていたチームも復調。最終戦にサヨナラ勝ちして最下位脱出を決め、晴れやかに1年を締めくくった。

 

ベンチ前で降雨をぼやく野村監督=2009年7月、秋田市のこまちスタジアム

 と、ここで終わらないのが、味わいすっきりといかないぼやきならでは。他山の石としたい戒めがある。

 08年の交流戦、東北楽天が巨人に勝った時、野村監督は試合後のインタビューでいきなり「バッカじゃなかろかルンバ♪」と歌った。「昭和枯れすすき」で知られるデュオ「さくらと一郎」の知る人ぞ知る曲だ。「バッカ…」と思ったのは、2点差の九回2死一塁の巨人の攻撃。同点弾の可能性がある中で、単独の盗塁死で自滅した幕切れだ。「巨人は面白い野球をする。野球は意外性のスポーツ」と遠回しにやゆもした。

 それにしても「バッカ…」だ。一般紙では許されない不快感を与える表現。さすがに採用を控えた。野村監督らしいサービス精神満点の場面ではあった。テレビでそのまま面白いぼやきとして流れ、08年を代表する野村語録にもなったが。

 「やはり」なのか、「忘れた頃に」なのか。しっぺ返しは来た。翌09年、東北楽天は巨人に交流戦4戦全敗。最後の試合後、報道陣を前に巨人の伊原春樹ヘッドコーチが1年越しの反撃に出る。「バッカじゃなかろかルンバ」

 阪神で監督とコーチだったかつて知ったる2人とはいえ、紳士的ではない言動の応酬だった。世が世なら会員制交流サイト(SNS)で炎上し、不毛な争いになっただろう。「策士策におぼれる」にも近いが、かようにぼやきが一人歩きすることがままあった。

 野村監督は「過度な表現には気を付けろ」と身をもって周囲を戒めていたのか…。そんなことはないか。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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