<今こそノムさんの教え(12)>「信なくば立たず」

 連載が始まって以来、読者の方にありがたい感想を頂く。「さぞ監督と信頼関係を築かれたのでしょうね」と感心される。ただ実際は「全然そんなことなかった」と言いたい。野村監督はファンの存在を思い描いて報道陣に接した。ありのままに良い面も悪い面も隠さず、言葉を発し続けた。日々のぼやきの渦の中に筆者は埋もれていただけだ。今回は監督と記者の関わりが切り口。語録は「信なくば立たず」。お盆なので、「気持ち多め」にノムさんをしのびます。

 「お前、初めて見るぞ! どこの会社か名乗れ! しっかり俺に顔を見せろ!」

 野村監督に烈火の如く怒鳴られた。2009年秋、野村楽天最終年も大詰め。自分は一応担当3年目だ。

 いつも通り監督を数人で囲み、三塁ベンチで雑談中。監督の目の前の席で見るからにやる気なくボーッとしていた。それが気に障ったのか。「監督に背を向けて選手の練習を見ていました。失礼しました。ずっと振り返ったままの体勢で聞くのがつらいんです」。素直に弁解もできない修羅場の様相。

 何日か前、別の記者が同じ席で居眠りしていた。周り全員が彼に冷たい視線を浴びせた。その時でさえ「疲れているんだよ。そっとしておいてやれ」と優しかった監督が、なぜ?
 「監督、何言ってんですか?。コンちゃんですよ、河北の」。夕刊紙記者が助け舟を出してくれた。

 「…ああ、なんだ。怒鳴って悪かったな」。監督が平静を取り戻す。苦笑いして「こそこそメモしているように見えたんだ。いちげんの記者と思ったわ。最近、気が立ってかなわんわ」。

 野村監督は雑談を逐一メモされるのをひどく嫌った。試合前くらい頭に浮かんだまま放談したかったのだろう。だから報道陣には言葉を適切に扱ってほしいと願い、寛容さを求めた。

 「『信なくば立たず』って言うだろう。人と人とはそういうもの。毎日一緒にいるんだから、俺のことを分かってくれよ」。信頼し合う重要性を説く言葉を「論語」から引用した。

 意思疎通に不器用な野村監督なりにオープンに構えた。だからちょっとくらいの不適切表現ならば、記者みんながおおらかでいた。毎試合前、約2時間の雑談の要点を記者はメモせず頭にたたきこんだ。監督は「関西と違って気疲れせんわ」と羽を伸ばしてくつろいだ。対話が成立していた。

 実際に、妻沙知代さんの逮捕による辞任で幕を閉じた野村阪神時代は苦難の連続。味のある「ぼやき」が裏目にも出た。

報道陣と言葉を交わす東北楽天の野村監督=2009年6月13日、Kスタ宮城(当時)

 監督が指導に悩んだ若手野手の話。

 「なんかやる気なく見えるんだよなあ」。野村監督はこの若手のことを思案していた。不意に昭和40年代のCMを思い出しつぶやいた。「見える、見える、ゼブラのボールペン」。インク残量が見えるという文句に引っかけ、異名「ゼブラ」が突然誕生する。虎番記者の格好のネタになった。

 記者を介する新聞辞令は野村監督の常とう手段。だがこの命名は逆効果だった。「やる気なく見える」と伝えられれば仕方ない面はある。若手には監督の親心は届かなかった。「俺は若い時にやる気なく見られて苦労した。あいつも似ている。誤解されないようにしてほしい」。監督はその若手が置かれた立場を伝えたいだけだったが。

 二人は不幸な結末を迎えた。在任中も退任後も、分かり合えずじまい。この若手が期待通りに超一流として開花するのは、続く星野仙一監督(元東北楽天監督)の時代にずれ込んだ。

 阪神の暗黒期を糧にしたのだろう。東北楽天で5季ぶりに球界復帰した時、70歳を過ぎた野村監督は柔和さを増していた。テレビで勝っても負けても「ノムさん語録」が連日ニュースで紹介された。全国のお茶の間で人気者になった。

 それでも就任4年目の09年秋、球団から監督へ契約延長要請はなかった。

 新興球団を過去最高の2位に導き、初のクライマックスシリーズに進出する大躍進をした。種をまき、水をやり、花を咲かせるチームづくりは最終段階。5年目の王座奪取を視野に「風雪五年だ」「念ずれば花開く」と願った。そこではしごを外された。無念の極み。やり場のない怒り。それが「怒鳴り事件」で暴発した。

 「楽天なんか、監督しなければよかった。阪神もだが、下地づくりの現場監督ばかりやらされて、優勝は後の星野がいいとこ取り…」。生前最後に会った時もぼやいていた。そして昨年2月、他界した。

 「人を遺すを上とす」と言った通り、野村野球の遺伝子を東北楽天に残した。田中将大投手はチームのかがみの存在だし、渡辺直人や鉄平は今や1軍コーチとして、石井一久監督を支える。2軍には息子の野村克則コーチもいる。

 選手と記者。立場は違えど、野村さんの薫陶を受けた。亡くなって以来、自問してきた。「『野村語録』は東北で語り継がれていくのだろうか?」と。

 「理想に向かう現実に苦しむからぼやくんだ」。監督はこう言った。思えばあの長い日に、念仏のように何度も何度も同じようなぼやきや思い出話を聞かされた。それこそが波瀾(はらん)万丈の歩みそのものを凝縮した言葉だった。

 しかし当時は選手評や名文句ばかりを面白おかしく書いてしまった。語録を借りれば「バッカじゃなかろかルンバ」だ。だからこの連載を始めた。このご時世、少しでも「世のため、人のため」になれないかと思う。今に通じる普遍的な人生訓を語録に探しながら。

 冒頭のご感想を下さる方々には感謝している。「信なくば…」を求めるようで心苦しいが、お願いがある。もし読後に心に残る何かを感じた時は、別の方とそれぞれの方法で思いを分かち合ってほしい。みんなで語録を思い返す「恩送り」こそが「恩返し」になるだろう。100敗近くしたあの低迷期に野村さんが東北に心血を注いでくれなければ、今があったか分からないのだから。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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