<今こそノムさんの教え(13)>「覚悟に勝る決断なし」

 「覚悟とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ」。仙台市出身の漫画家荒木飛呂彦さんが「ジョジョの奇妙な冒険」第5部で主人公に言わせている。野球でも、決死の覚悟による本塁突入で奪った虎の子の1点が時に新たな歴史を切り開く。今回の野村語録「覚悟に勝る決断なし」。

 単独のホームスチールを生で見たことがあるだろうか。

 目の前から前田健太投手が忍者のように消えた。三走に立っていたはずが、瞬く間に本盗成功。2006年春の選抜大会準々決勝、PL学園(大阪)が秋田商を先制した二回2死三塁の場面だ。カメラマンで三塁側取材席にいた。何とか撮影できたが、度肝を抜かれた。確かに捕手は右打者がいて三走を見にくい。右下手の投手も打者に集中していた。とはいえだ。

 「ひらめいた」。前田のセンスが非凡すぎた。「安打で点を取られるより嫌でしょう」と投手心理を知るしたたかさも。本業でも好投して4―1で逃げ切り勝ち。前田はその秋ドラフト1位で広島に進み、今は大リーグ・ツインズで活躍する。それも当然と思えるスターの前日譚だ。

 「ホームスチールなら、現役時代に俺は7個もやってるぞ。どうや!」

 東北楽天の野村監督は驚異的な本盗数の自慢話になると止まらなかった。「世界の盗塁王」こと福本豊(阪急)をも上回るという。

 問わず語りが続く。「投手は福本のような選手なら強く警戒する。でも『鈍足の野村が走るわけない』と思う」。これが相手に油断が生じる瞬間。「いくぞ、いくぞと少し大きめにリードして探る。すると『ノムさん、その気もないのに脅かすなよ』という顔をする。そういう相手ほど本気で仕掛けると泡を食うんだ」。あとは走るだけという。

 極論、足の速さはさほど関係ないらしい。「俊足と鈍足が同じ塁間を走っても何メートルも差が出ない。昔、陸上短距離の五輪代表が代走要員としてロッテに入った。でもスタートが下手で、盗塁成功率が低かった」

 だから東北楽天でも山崎武司ら俊足ではない選手こそ尻をたたいた。「走れ、走れ。鈍足ほど成功する。俊足にはない特権だ」。もちろん年に何度もない奇策。さすがに本盗挑戦者はいなかったが、意外な選手が野村流「鈍足正機説」に従う。しかも初のクライマックスシリーズ進出を争う09年の勝負の秋、歴史的勝利を呼び込んだ。

1993年の日本シリーズでヤクルトを日本一に導き、ナインに胴上げされる野村克也監督

 それはセギノール。「状況を打開したかった」と果敢に走った。3位で迎えた9月22日のオリックス戦、1点を追う六回無死走者なし、四球で出塁後、194センチの巨体を揺すって二盗を陥れた。野村監督が言う極意は「投手の動作の癖を見抜く観察力、一番は次の塁を狙う勇気」。これを助っ人は「自分のアイデアさ」と身をもって示した。

 ここから一挙8得点で大逆転。野村監督は「流れを変えた価値ある盗塁」「やればできる。鈍足は100%成功する」と助っ人を大絶賛。球団の新たな歴史を切り開くシーズン68勝目を手にし、最終的に2位浮上する勢いを増した。

 リスクの大きい決断ほど根拠や胆力がいる。そんな時、野村監督は「迷ったら覚悟を決めろ」と周囲にも自身にも求めた。「覚悟に勝る決断なし」。日本一達成を目前で逃した悔しさから立ち上がった軌跡を象徴する語録だ。

 1992年、野村ヤクルトがリーグ初制覇して臨んだ日本シリーズ。過去6年間で5度日本一という常勝軍団・西武に挑み、最終第7戦までもつれた。

 同点の七回1死満塁の絶好機、代打杉浦享の打球は二塁への内野ゴロ。ヤクルトベンチが「勝ち越しか」と思った瞬間、三走広沢克己はホームの数歩手前にいた。

 直後本塁で封殺され、勝ち越せず。最後は惜敗。広沢は内野へのライナー併殺を警戒。ゴロを確認して踏み出すセオリーを守っていた。

 「選手が慎重になる場面だからこそ、俺が覚悟を決める必要があった」

 こう痛感した野村監督は翌年春季キャンプ、打倒西武の秘策「ギャンブルスタート」を編み出す。

 バットにボールが当たった瞬間、三走が猛然と本塁突入する新戦術。ライナー併殺の危険性が高まる半面、吉と出れば本塁到達が早まる。覚悟の勝負手だ。野村監督自身が、1970年南海(現ソフトバンク)に始まる監督生活初の日本一に向け、燃えに燃えた。

 そして93年秋、日本シリーズで西武と再戦。雪辱を果たす機会が来た。

 第7戦、1点リードの八回、3番古田敦也が中越え三塁を放ち、1死三塁に持ち込む。次の1点が王者の座を大きく左右する場面、カウント1ストライク3ボールから、古田は意を決して秘策を決行する。広沢が前進守備の遊撃へゴロを打つ間に、難なく本塁に滑り込んだ。

 見事、ばくちに勝った。

 だが、野村監督にも驚くべき一幕だった。実は「ギャンブル」していなかった。

 前日の第6戦で秘策強行が不発に終わった。2点を追う九回1死一、三塁。三走が猛スタートしたが、打球は外野ライナー。慌てて三塁に戻るのがやっとだった。種明かししてしまった上、犠飛の1点も逃した。だから第7戦のこの場面、一回に先制弾を放った4番広沢のバットに期待した。

 そこで古田の好走塁だ。王座奪取の執念から誰よりも「覚悟」を見せた。

 チームを救ったとはいえ、ベンチ無視の独断だ。厳しい監督はどう思ったか? 失敗なら追及したかもしれない。しかし日本一の胴上げ後、インタビューで相好を崩す。

 「間違いなく選手たちは大きく成長している」

 理想は、何も言われなくても自分で判断してプレーできる選手たちのチーム。それを古田らの姿に見たからだった。そして万感の思いが胸に込み上げた。ヤクルト黄金時代の幕開けを感じながら。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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