<今こそノムさんの教え(15)>「失敗と書いて『せいちょう(成長)』と読む」

 全国高校野球選手権で智弁和歌山を優勝に導いた中谷仁監督。主将だった1997年に続き、指導者でも栄冠に輝いた。お忘れの方も多いだろうが野村楽天最後の2009年、正捕手は嶋基宏(ヤクルト)ではなく、彼だった。今回は毎年のように戦力外を覚悟しながら、必死にはい上がった中谷捕手の物語。語録は「失敗と書いて『せいちょう(成長)』と読む」。

勝利を喜ぶ東北楽天先発田中と捕手中谷=Kスタ宮城

 真っ黒に日焼けした高校球児のような風ぼうから想像できないほど繊細で内なる弱さをのぞかせる人だった。07年久米島キャンプの紅白戦。前年夏の甲子園を沸かせた高卒新人田中将大の初実戦だった。結果は直球勝負でソロ2被弾して2回2失点。元スター球児同士でバッテリーを組んだ中谷に感想を聞いた。

 「将来球界を背負う投手のスケールを感じた。結果打たれたが、直球で攻めたかった。こういう談話、ほしいんでしょ」。取り囲む報道陣に期待通りの返答。しかし二人きりになると不意に本音が出た。「ぼくだって1軍に残れるかという立場。正直、結果を出したかった…。だからあまり打たれたって書かんといて」。最後は関西弁だった。

 中谷は98年ドラフト1位で阪神入団。しかし不慮の事故で左目が失明寸前になり、2006年に東北楽天へ移籍。プロ10年目、阪神に続き野村監督に仕えていた。

 08年9月末、2軍練習場。中谷が筆者に近づいてきた。「今日は何の取材ですか」。まさに戦力外通告の時期。記者の姿に不吉な気がしたのか、不安そうに探りを入れた。移籍後3年で1軍12試合出場。常に危うい立場にいたからだ。

 「『今年が最後』と思い続けてラストチャンスをつかんだ」。09年、ついに花開く。きっかけは同年初出場の阪神戦、しかも球児の聖地・甲子園。

 交流戦最後の試合、野村監督らは「今日駄目なら中谷は2軍へ」という予定をうれしい誤算で覆される。五回代打に出た中谷は、相手のエース能見篤史(現オリックス)からプロ初アーチ。続く捕手の守備でも、盗塁王の常連赤星憲広の二盗を阻止した。阪神での苦労を知る彼らは「中谷にやられた」と取材に答え、活躍の価値を高めてくれた。

 「捕手は投手の補手であれ」「目配り、気配り、思いやり」。捕手には、投手をもり立てる配慮を求めた野村監督。「敗因を生かそうと研究熱心だし、他と違う雰囲気がある」と中谷に何かを感じた。勝利数が伸び悩んでいた永井怜への好リードを足掛かりに正捕手定着。自己最多55試合に出て、夏からの快進撃を扇の要として支え、球団初のクライマックスシリーズ(CS)出場に貢献した。

マウンドでぼうぜんとする東北楽天の福盛と日本ハムナイン=札幌ドーム

 日本ハムと戦ったCS第2ステージ第1戦、悔しいでは済まない失敗をする。野村監督の最後の花道を飾るべく破竹の勢いで第1ステージ突破して迎えたこの試合、快勝目前でまさかの結末を迎える。抑えの福盛和男がスレッジに逆転満塁サヨナラ被弾。東北楽天史上最大の悲劇だ。

 「全ては自分の捕手としての未熟さによるもの。あのまま勝ったらきっと日本シリーズに進んでいた」。中谷はこう吐露した。直前に鉄平の2ランで4点差に広げ、チームが「これでいける」と思った九回。今も「福盛の21球」と語り草の悪夢が待っていた。

 福盛は先頭を打ち取った後、怒濤(どとう)の3連打を浴び1失点。さらに与四球で満塁に陥った。しかし続くスレッジに野村監督は明確な攻略法があった。「選球眼が悪く、振ってくる。1ストライク取れば、後は落ちる変化球で誘え」

 直前の四球は、フルカウントから落ちる変化球を見逃された。丁寧な投球が実らず動揺したか、バッテリーは敵地の押せ押せの雰囲気にのまれていく。

 スレッジへ初球チェンジアップ。甘く上ずったが、相手はつられて空振り。願ってもない1ストライク。福盛には「数々の修羅場をくぐり抜けた相棒」と言う勝負球フォークボールがある。監督の考え通り、それを落とせばよかったが。

 そして21球目。

 中谷の指示「フォーク」に福盛は首を振る。「じゃあチェンジアップをもう一球?」。これも合わない。「えっ、えっ、どうするの?」。中谷は取り乱す。直後、福盛が投げたのは直球系の逃げる変化球ツーシーム。しかしスレッジがどんぴしゃりのタイミングで打ったボールは、瞬く間に左翼席へ突き刺さった。

 福盛は数日前にインフルエンザ感染。病み上がりだった。「フォークを確実に落とせる自信がなかった」。だから外角へのツーシームをファウルさせ、まず2ナッシングにしたかった。「3ボールの余裕があれば今日の調子でも1球はフォークが決まる」と信じた。

 「サインに自信を持てばよかった。マウンドへ声を掛けにも行けた。準備や覚悟を欠いた自分の責任」。中谷は己の至らなさが歯がゆかった。あれが中谷が輝いた唯一の年になった。12年に移籍した巨人で引退。

 18年9月、母校の監督になった中谷を訪ねた。どこか悩みを打ち明けてくるような語りは相変わらず。「まだあの時の失敗を乗り越えたとは言えない。高校生たちにああいうピンチを100%の覚悟を持って乗り越える指導ができた時。そこでやっとでしょうかね」

 時は来た。8月29日の甲子園、決勝戦。3点差に広げた後の六回守備。無死一塁を許した。流れが傾きかねない局面で、中谷監督は伝令を送る。一呼吸置いたナインは続く打者を併殺に打ち取り、ピンチ脱出。その後も追加点を重ねて主導権を渡さず、頂点に立った。

 「CSの失敗を過去の物にできたか」。中谷は試合後の取材に答えた。「一緒に苦しんできた子どもたちが大きな仕事をやっちゃった、って気持ちはあるが…」

 野村監督の教えに「失敗と書いて『せいちょう(成長)』と読む」がある。成長とはある時に振り返って実感するものなのだろう。中谷は名将への道を歩み始めたばかり。まだまだ前だけを見ていてほしい。
(一関支局・金野正之=元東北楽天担当)

[のむら・かつや]京都府網野町出身(現京丹後市)。峰山高から1954年にテスト生で南海(現ソフトバンク)へ入団、65年に戦後初の三冠王に輝いた。73年には兼任監督としてリーグ制覇。77年途中に解任された後、ロッテ、西武で80年までプレーした。出場試合3017、通算本塁打数657は歴代2位。野球解説者を経て、90年ヤクルト監督に就任し、リーグ制覇4度、日本一3度と90年代に黄金時代を築いた。99年から阪神監督となるも3年連続最下位に沈み、沙知代夫人の不祥事もあって2001年オフに辞任。社会人シダックスの監督を経て、06年から東北楽天監督に。07年に初の最下位脱出し、09年には2位躍進で初のクライマックスシリーズ進出に導いた。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。20年2月11日、84歳で死去。

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