沼田秀平(1886~1970年)は旧宮崎村(現加美町)の村長を務め、宮城の県花、ミヤギノハギの普及に尽力した。自宅はハギが咲き誇り、「白萩荘」とも呼ばれた。
白萩荘のハギ畑の跡地は現在、沼田の孫で画家の常陸れいさん(79)が住み、庭のミヤギノハギが来客を迎える。常陸さんは東京生活を経て約20年前、白萩荘のある同町宮崎に戻った。祖父の生涯を掘り起こし、2010年、自宅併設のギャラリーで企画展「宮崎村の沼田秀平」を開いた。
常陸さんは幼い頃、沼田と一緒に暮らした。「初孫だったので、どこにでも連れて行ってくれる優しい祖父でした。ただ、ハギの育成に関する周囲への指導は厳しかった」と振り返る。
宮崎地区は戦前、馬の産地だった。沼田は仲間とともに、馬の飼料としてミヤギノハギに注目。種を求めて各地を訪ね、栽培法にも工夫を凝らした。戦時中もハギ村長と呼ばれるほど活動に熱中したが、戦後は公職追放になった。
その後は民間の立場で、荒廃した森をよみがえらせようと杉苗の育成に力を入れた。飼料需要が減ったミヤギノハギについては、優美な姿を生かし観賞用としての普及に努めた。皇居の緑化に協力してミヤギノハギを植えたり、全国の観光地や神社仏閣に苗を贈ったりするなど精力的な活動を続けた。
宮崎町史(1970年刊)に本人が思いをつづっている。「公職追放の身柄となり、研究と普及に熱中した。(中略)最近、外国大使館より苗の有無を照会されうれしい悲鳴をあげている。命ある限り、宮城野萩と生きていく決意だ」
沼田は大正時代には、江戸末期から明治初期に地元で生産されていた陶磁器「切込焼(きりごめやき)」の復興に実業家らと挑んだ。海外輸出も見据えた計画だったが、本格的な販売を前に不況の影響で頓挫した。
さまざまな「種」をまき続けた活動の原点を探った常陸さん。祖父が1917年に地元青年団体の文集に寄稿した「余の見たる宮崎村の将来」という文章にたどり着いた。村の課題を分析した上で「関係者の大努力と村民一致の精神の向上による協力により、世にも珍しき幸福なる自治農村となしたきものと熱望す」と結んでいる。
「大正デモクラシーの雰囲気の中、宮崎を活気づけようとした。当時の人々の努力、熱意を忘れないでほしい」と常陸さんは願う。毎年、ミヤギノハギが見ごろとなる9月下旬、ギャラリーで先人を紹介する企画展や個展を開いている。(加美支局・阿部信男)
[メモ]ミヤギノハギの名の由来は歌枕の「宮城野の萩」からとする説などがある。宮城県の県花とされているが、条例などで公式に決められたものではなく、1955年にNHK、植物友の会、全日本観光連盟などが各都道府県から「郷土の花」を選んだ際に決まり、県の花として定着している。
私たちの暮らす現代社会の豊かさは、先人たちのたゆまぬ努力と強靱(きょうじん)な意志、優れた知性や感性などに支えられ、長い年月をかけて育まれてきた。宮城の地域社会に大きな影響を及ぼしてきた人々の足跡をたどり、これからの社会やおのおのの人生をより良くするヒントを学び取りたい。
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