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愛媛・宇和島に梶原景時の墓? 活躍した時代と建造時期に大きな開き

 「愛媛県宇和島市津島地域に梶原景時の墓がある。なぜこんな辺地にあるのか調べてほしい」。市内在住の男性から愛媛新聞社(松山市)の「真相追求 みんなの特報班」(通称・みん特)に手紙が寄せられた。景時といえば、現在放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する主要人物の一人。歴史ロマンある依頼に胸の高まりを覚えながら、取材に取りかかった。

五輪塔は地域で「梶原様」と呼ばれ大切にされてきた

 景時は平安後期-鎌倉時代の武将で、一説には神奈川県鎌倉市の出とされる。平氏との戦いで敗走した源頼朝の窮地を救ったことから信任を得て重用された。頼朝没後も有力家臣として権勢を振るったが、御家人の弾劾を受けて失脚。立て直しを図るも1200年に駿河(静岡県)で討ち死にした。

 情報提供者の清家源太郎さん(89)=宇和島市津島町上畑地=によると「以前、地元の会合で景時の墓があるという話を聞いた。当時は関東の武将の墓があるわけないと思っていた」という。10年ほど前に墓の近くに住む人と知り合い、現地で墓を確認したそうだ。

 墓は山あいの同市津島町槙川の石原地区にあるとのことで、御槙公民館の松浦芳児館長らと訪ねた。私有地のため、土地管理者の親族の女性に立ち会ってもらった。

 石段を上ると、石垣に囲まれた木々の間にひっそりと五輪塔が立っていた。高さは120センチほどで「地輪」と呼ばれる方形の石部分に刻まれた文字は、風化やコケで分かりづらいが「梶」「元祖」「景」などと確認することができた。

 五輪塔は形状などの情報から造られた年代をある程度絞り込むことができる。石造物に詳しい黒川信義さん(71)=愛媛県伊方町=に写真で確認してもらうと、最上段の「空輪」の形状や塔の材質から製作は江戸時代中期以降で比較的新しいと推定された。

 年代の上では、景時の活躍した時代と大きな開きがあることから、五輪塔との直接的な関係は見いだしづらい。

 では誰の墓なのか。旧津島町誌に五輪塔の由来に関する記述がわずかながらあった。槙川周辺の田畑を開拓した「梶原重成」の塔で、重成は天正年間(1573~92年)に土着したが、後に長宗我部軍と戦って討ち死にしたとある。

 重成については、墓を守る梶原家の現当主・梶原洋一さん(77)=宇和島市川内=に話を聞くことができた。

 洋一さんは重成を「正しくは重成景治(しげなりかげはる)」と説明。系図の上では、景時の子である景義の子孫に当たるという。

 五輪塔に関して梶原家に伝わる巻物に記録が残っていた。製造時期は幕末の安政4(1857)年で、石に刻まれた「梶原之元祖」は、塔建立までの祖先を祭っていることを指す。「この地での梶原家の始まりという、ご先祖の意思表示だろう」と洋一さんはおもんぱかった。

 五輪塔は、景時本人ではなく、子孫の墓であることが見えてきた。景時の墓と誤認された要因について洋一さんは、墓が地域で伝わる中で「かっこいい方につなげたかったのでは」と推測する。

 愛媛県歴史文化博物館の大本敬久専門学芸員も同様の理由を挙げる。鎌倉時代初期に父のあだ討ちを果たした曽我兄弟や南北朝争乱で敗れた新田義貞ら、関東の武士が南予各地で祭られている例は多いという。

 「関東武士を取り上げた歌舞伎や浄瑠璃の中に景時も登場する。物語が伝わる際には、当地の伝説とのすり替わりが起こりやすく、『梶原といえば…』と景時に先祖返りしたのかもしれない」と語った。

五輪塔には「梶原之元祖」などと刻まれていることが分かった

 県内各地の伝承をまとめた「伊予温故録」には、景時が大洲を領し、大洲盆地の冨士山を名付けたとされている。しかし、今回の取材では史実として確認できなかった。

 実際の景時の墓がどこにあるか探すと、静岡市に行き着いた。同市文化財課によると、清水区に「梶原堂」と呼ばれる景時らを祭ったお堂があるほか、高源寺には梶原一族の供養碑が残っている。

 墓の歴史をたどり、景時と南予の縁に焦点を当ててきたが、印象に残ったのは、先祖を敬う地域の人たちの姿だ。

 現地取材に立ち会ってくれた女性によると、地区外から嫁いできた伯母が、墓を掃除したり花を手向けたりと長年にわたって手入れしてきた。墓は「梶原様」と呼んで大切にされ、春と秋には「お籠(こ)もり」と呼ばれる供養が催されていたそうだ。

 著名な人物でなくとも、その土地には生活の基盤をつくり、世代をつないできた人たちがいることを、静かに立つ五輪塔は語ってくれた。
(愛媛新聞提供)

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