ベガルタJ2戦記(6) GMはつらいよ
2004~05年余録
ベガルタ仙台は今季、J2から再出発した。抜け出すことの難しさから「沼」とも称されるこのリーグは、前回はい上がるまで6シーズンを要した。特に苦しい戦いが続いたのが降格1、2年目。当時の番記者として、戦力や経営面から苦闘ぶりを振り返ってみる。縁起でもないと感じる向きもあるかもしれないが、あえてここは英国の政治家チャーチルの言葉を引こう。
「歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返す」
GM(ゼネラルマネジャー)。辞書を引くと「工場・会社などの日々の営業を監督する統括管理者、総支配人」とある。プロスポーツチームなら経営と現場の間に立ち、チーム強化に向けてのかじ取りを担う役割だ。
実際の立ち位置はかなり曖昧と言える。仙台のプロチームを見ていても分かる。東北楽天は2018年から石井一久氏が務めてきたが、紆余(うよ)曲折あって昨年から監督を兼務している。巨人・原辰徳監督と同様、「全権監督」になった。バスケットボールのB2仙台は逆のパターン。ミスターナイナーズと言える存在だった志村雄彦氏がGMを務めてきたが、20年に社長に就任。経営側に転身した。
ある辞書にはこうも書いてある。「オーナーに直属し、フィールドマネジャー(監督)の上に立つ役割」。現場と経営のはざまに揺れる難しい立場であることは間違いない。
ベガルタのJ2降格が決まったのが03年11月28日。わずか2日後、余波を打ち消すように発表されたのが新GM就任のニュースだった。
田中孝司さんはJ1名古屋や湘南の監督を経て仙台にやってきた。埼玉県出身で市浦和高時代は清水秀彦元監督の1学年下。明大を経て日本リーグの日本鋼管で活躍し、日本代表としても20試合に出場している。
あのマラドーナ(アルゼンチン)ともマッチアップしている。1982年にボカ・ジュニアーズが来日。親善試合で日本代表と対戦した。「どうやっても止められない。怖いほどだった」。そんな話をよく聞かされた。
指導者としてはU―18(18歳以下)日本代表監督を務め、元鹿島、仙台の熊谷浩二(青森県十和田市出身)を主将に95年の世界ユースで8強入りを果たした。その後はJ1名古屋で名将ベンゲル(後のアーセナル監督)の下でコーチとなり、97年から監督に。仙台のGM時代、腕には最近超高値で取引されている欧州製の時計が光っていた。「名古屋で初勝利を挙げた時に記念でもらった」という。Jリーグバブルを感じさせる話だ。
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最近外食チェーン幹部の舌禍事件で話題に上った「プロ経営者」という言葉はまさにGMに当てはまる。全く新しい会社(チーム)に一人入り込み、増収(強化)に向けて組織を動かす。成績が悪ければすぐに首を切られることもある。ビジネスマン(サッカー人)としての胆力が問われる仕事と言えるだろう。
GMに招聘(しょうへい)したのは当時の京極昭社長だったが、J2降格に伴い辞任。新社長に代わってしまった。ベルデニック監督も自分が呼んできた指揮官ではない。そんな中で1年でJ1復帰という難題が課せられていた。
監督との折り合いは決していいとは言えなかった。前半戦の成績低迷を受けてチームは外国人を2人補強するが、マケドニア人DFセドロスキーこそ監督の意向に沿った選手だったものの、ブラジル人FWファビオヌネスはタイプが違っていた。不満を口にする監督との溝は広がるばかり。昇格の可能性がなくなった11月、事態は決定的なものとなった。
翌年も契約が残るベルデニック監督はフロントに要望書を提出した。A4用紙数枚に渡る「ベルデニックレポート」は、FWを欧州から連れてくることや、J1主力級の獲得を実名入りで求めていた。
当時の仙台の財力から言って到底飲める内容ではない。流れは一気に監督解任へと動いた。11月27日の最終戦後、契約解除の通告書が監督に手渡される。「フロントはこのメンバーでJ1に上がれると思っていたらしい」(ベルデニック監督)「上位チームと比べても戦力的な差はなかった」(GM)。最後は泥仕合の幕切れとなってしまった。
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田中さんは後任に日本代表の盟友、都並敏史氏を据えた。現役時代の実績、知名度は申し分ないが、Jクラブの指揮経験はない。疑問を持つサポーターは多かった。05年シーズンも序盤戦から出遅れ、最後は勝ち点1差で昇格を逃す。結果を残せなければ責任を問われる。監督とともに仙台を去った。
J1復帰は果たせなかったが、田中さんが残した大きな功績が一つある。手倉森誠氏(青森県五戸町出身)をコーチとして呼んだことだ。
「東北のチームなんだから、東北の指導者が率いるのが理想。そういう人間をクラブとして育てていかなければならない」。招請した理由をそう話していた。その言葉通り、手倉森氏は監督となり、チームをJ1復帰に導き、東日本大震災を乗り越え、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)出場を果たした。もしあの時、田中さんが声をかけていなかったら、どうなっていたのだろうか。
今は手倉森氏の下、コーチとして経験を積んできた原崎政人監督(青森県藤崎町出身)がチームを率いる。人と人とをあざない、つなげ、クラブの歴史は刻まれていく。
(編集局コンテンツセンター・安住健郎)
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