「国葬」巡る政府対応 国民不在、本来の意義損なう 社説(8/31)

 そもそも、これを「国葬」と呼べるのだろうか。

 国として執り行うのは「海外からの弔意に国際儀礼として応える必要がある」(松野博一官房長官)ためで、主権者たる国民の意思はまるで二の次といった口ぶりだ。

 国内での弔意の示し方も、過去の内閣・自民党合同葬などより後退させるという。

 いずれも世論の逆風をかわす小手先の説明や対応で、政府自ら「国葬」が本来備えるべき意義や格式を損なっているように見える。

 これでは国民の思いがこもらぬ、空虚な前例を作ることになりかねない。岸田文雄首相は国民の疑問や批判に向き合い、ただちに国会審議に応じて説明を尽くすべきだ。

 政府は先週、安倍晋三元首相の国葬費用に予備費から約2億5000万円を支出することを閣議決定した。省庁や関係機関に弔意表明を求める閣議了解は行わず、地方自治体や教育委員会などにも協力を求めない方針を示した。

 予備費からの支出は、会場となる日本武道館の借り上げ料と設営費が主体で、警備費や海外から要人を迎える費用は含まれていない。

 「警察庁や外務省の通常業務の延長であるため、既定予算で対応する」(鈴木俊一財務相)としているが、経費の全体像が見えにくくなれば、国民の疑問や不信はさらに膨らむ。全額を国費で賄うのであれば、当然、国会に詳細を示す必要があろう。

 一方、これまで国が関わった歴代首相経験者の葬儀では閣議了解により、関係機関に弔旗掲揚や黙とうを求めてきたが、こうした前例は踏襲しないという。

 政府は「国民一人一人に喪に服することを求めるものではない」(松野官房長官)と説明するが、本来は国民の一致した弔意こそ、国葬の裏付けとなるべきものだろう。

 どんな儀式にも、その重みに応じた様式と品位が求められるのは言うまでもない。

 過去の内閣・自民党合同葬や衆院・内閣合同葬に比べ国全体としての弔意の表明が質、量ともに減退しては、もはや国葬としての体裁をなさないのではないか。

 もちろん、国民の「内心の自由」に干渉し、弔意を押し付けるようなことはあってはならない。国葬に法的根拠がない以上、国民の間に一定の理解と合意がなければ、それは国葬の名に値しない。

 岸田首相は、安倍元首相の銃撃事件からわずか6日後の7月14日に会見で国葬の実施を表明。「さまざまな機会を通じて丁寧に説明を続けたい」と述べたものの、野党が求める臨時国会の早期召集には応じようともしない。

 世論の批判を恐れ、その場しのぎの対応を重ねるほど、本来の意義はかすんでいく。

 なぜ、国葬なのか。首相は早急に国民の疑問に正面から答え、なし崩し的に進む準備を仕切り直すべきだ。

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