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繕ってきた過去も、今なら描き直せる<震災を編む 表現する若者たち(4)完>

 20歳を過ぎた若者たちが東日本大震災をテーマにした表現活動に挑み始めた。幼くて言葉にできなかった当時の記憶や感情。あの日から11年半、震災と向き合い、時に悩みながら大人になり、自分なりの伝え方にたどり着いた。それぞれの作品に込めた思いを見つめた。(4回続き)

大船渡→仙台 山下森人さん(20)

自身の過去を描く映画の撮影に臨む山下さん=8月5日、仙台市若林区荒浜西

 「絆」「古里のために」。型通りのフレーズを耳にするたび、息苦しくなった。その反動が創作の原動力だった。

 8月上旬の仙台市若林区荒浜。東北大3年山下森人さん(20)=太白区=は、東日本大震災を題材にした映画の撮影に臨んだ。

 <逃げるように被災した地元を出た大学生の佑人は夏休みに帰省し、同級生たちと偶然再会する。だが相変わらず心を開かないまま過ごす>
 自身の過去を投影させた主人公が、三脚で固定したカメラに映る。

 <いわれのない殺人容疑をかけられ、裁判が開かれる。証言台に立った友人の口から、佑人の震災後の葛藤が次々と明かされる>
 出身は、津波で甚大な被害を受けた大船渡市三陸町の越喜来地区。高校卒業まで暮らしたが、震災以降の雰囲気になじめなかった。「安心できるっていう意味では地元はない。根無し草みたいな感じかな」

前向きな言葉についていけない自分

 越喜来小3年だったあの日、家族と九州にいた。揺れも津波も経験していない。幸い友人や知人はみな無事で、自宅に大きな被害はなかった。けれども、周囲からは「被災地の子ども」としての振る舞いが期待された。

 震災体験の作文を発表する集会。「それでも希望を持って生きようと思いました」。代表の児童は朗々と読み上げた。

 苦難を乗り越える「被災者」としての作文は書けなかった。「希望が感じられない」。先生は落胆したようだった。越喜来中でも、行事のたびに前向きな言葉が繰り返された。ついていけない自分がいた。

 進学した大船渡高で、地域に人を呼ぶアイデアを考えるプロジェクトに参加。指導した大学教員は「地域のために学び、将来は帰ってきて」と呼びかけた。今度は「復興の担い手」役を求められた。

 一歩離れて震災を考えたいと、古里を出た。

主人公の佑人(左)が大学の友人と語り合う映画の一場面

一人一人違う意味を、言葉にできたら

 昨年10月、社会活動を支援する大学のクラウドファンディング(CF)を知り、構想を練った。

 被災地での出来事を友人に話すうち、興味を持って聞いてくれることに気が付いた。「そんなに変わった経験だったんだ」。自分をモデルにした映画制作に決め、応募した。

 映画は今秋の完成を目指すが、ゴールはその先だ。「震災は一人一人違う意味を持つはず。それを言葉にできたら」。上映会は討論会を兼ねて開きたい。同じ苦悩を抱える人が、語り出すきっかけになるかもしれない。

 撮影のめどが付いた今年8月下旬、約1年ぶりに帰省した。小、中学の卒業アルバムを開いてみる。長く抱えていた違和感は1文字もつづられていなかった。繕ってきた過去を、今なら描き直せる気がしている。
(報道部・岩田裕貴)

 今回の連載は、2015年以降に入社した20代の記者4人と写真映像部藤井かをり、整理部八木高寛が担当しました。

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震災報道若手記者PT

 東日本大震災の発生から13年。あの日を知らない若い世代が増える中で、命を守る教訓を伝え継ぐために何ができるのか。震災後に河北新報社に入社した記者たちが、読者や被災地の皆さんと一緒に考え、発信していきます。

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