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絵筆を執って、記憶に向き合う<震災を編む 表現する若者たち(2)>

 20歳を過ぎた若者たちが東日本大震災をテーマにした表現活動に挑み始めた。幼くて言葉にできなかった当時の記憶や感情。あの日から11年半、震災と向き合い、時に悩みながら大人になり、自分なりの伝え方にたどり着いた。それぞれの作品に込めた思いを見つめた。(4回続き)

福島・浪江→山形 玉野文菜さん(22)

震災遺構となった母校の請戸小で、卒業制作に向けたスケッチをする玉野さん=8月24日、福島県浪江町

 東日本大震災の記憶をモチーフにしたアクリル画「追憶」。制作期間は3カ月だが、筆を執るまでには11年の時が必要だった。

 東北芸術工科大美術科4年の玉野文菜さん(22)=山形市=が7月、学内の展覧会に出した6枚組み作品。津波や被災した母校をテーマにしたのは初めてだ。

 震災当時は福島県浪江町請戸小の4年生。先生や同級生たちと校舎から1キロ以上離れた大平山まで避難した。後ろは振り返らず、ゴオーッと音を立てるえたいの知れない何かから逃げた。

 メインの絵に赤黒く不気味に描いたのは、白波を立てながら地を這(は)う津波。迫りくる恐怖を思い出し、見慣れた海の青は選べなかった。

 作品説明には、複雑な心境がにじむ。<過去を振り返ることはあまり好きでない。けれど、時々思い出さないと、あの日のことが無かったことになりそうで、少し責められているような気分になる。忘れる前に、記憶を掘り起こしてみた>

当初はどこか人ごとに

 浪江町は死者・行方不明者が182人に上り、うち154人は請戸地区の住民だった。玉野さんの自宅は津波で流失。その上、東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされ、千葉県で1年間過ごした後、家族で相馬市に移り住んだ。

 悲しいという感情は、不思議と湧いてこなかった。震災の話題を見聞きしても、どこか人ごとに思えた。

 校舎1階の天井まで津波に漬かった請戸小は、震災遺構になった。母校出身の知人はテレビで復興や古里への思いを語っていた。「いろいろ考えていてすごいな」と感じたけれど、立場を重ね合わせて感情移入することはできなかった。「私って薄情なのかな」。自分を責めることもあった。

 震災との距離感が縮まったのは、今春に始めた就職活動がきっかけ。<小学生だった震災の時、浪江町で津波の被害に遭った>。エントリーシートの自己PRは、自然とこう書き出していた。就活サイトを見ていても、福島の沿岸部の企業ばかり目に留まった。

 自分の過去は震災抜きに語れない。「いよいよ向き合わなきゃいけないんだ」

赤黒い色で津波を表現した組み作品「追憶」の1枚

感情をキャンバスにぶつける

 幼い頃から好きだった絵は、一番自信の持てる表現手段だ。避難した時に寒さで手が凍えたつらさ、流れ付いた松ぼっくりで埋め尽くされた母校の手洗い場を見たときの不快感-。ふたをしてきた感情を、そのままキャンバスにぶつけた。

 展覧会前の教授に向けた説明で作品に込めた思いを吐き出すと、心が軽くなった。「薄情だったんじゃない。子どもなりに目の前の生活をこなすのに必死だったんだ」

 気持ちの整理がつくと、自分以外のことを考える余裕が生まれた。「被災地の一員」として、地元に貢献したい思いも芽生えた。

 「ようやく出発点に立てた気がしている」

 自分に何ができるのかは正直分からない。未来予想図は、良くも悪くもまだ白紙だ。
(山形総局・奥島ひかる)

 この連載は、震災報道や記憶の継承を考える河北新報社のプロジェクトの一環として、震災後に入社した若手記者が担当します。

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震災報道若手記者PT

 東日本大震災の発生から11年。あの日を知らない若い世代が増える中で、命を守る教訓を伝え継ぐために何ができるのか。震災後に河北新報社に入社した記者たちが、読者や被災地の皆さんと一緒に考え、発信していきます。

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