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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>ヤマト王権の初期政策 官家としての柵・駅造営

大化改新の頃のヤマト王権による北方進出
大化改新前後の石巻地域の城柵造営・移民政策

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方

<移民の囲郭集落が出現>

 ヤマト王権の中心である飛鳥で蘇我蝦夷・入鹿親子の蘇我本宗家を倒して中央集権国家を目指した乙巳(いっし)の変・大化改新(たいかのかいしん)の政策は、王権範囲外の蝦夷と呼ばれる地にも大きく影響を及ぼしました。

 石巻地方では、7世紀前半まで在地の小規模集落であった赤井遺跡に、7世紀中葉に上総(かずさ)を中心とする地域から大量に移民が送り込まれました。東松島市赤井遺跡の他に野蒜亀岡遺跡、石巻市関ノ入遺跡、後に桃生城が造営される丘陵からも数件の移民の住居が見つかっています。

■在地と協働経営

 移民集団は静岡県湖西窯跡群産須恵器を入手するネットワークを持って移住し、矢本横穴に故地の墓制である横穴墓(高壇式類似)を造営しました。関東系土師器を主体的に用いながらも在地土師器も伴うこと、矢本横穴出土人骨の形質の分析から移民と在地民が同じ横穴に葬られる状況から移民集団と在地集団は赤井遺跡集落で協働の集落経営を行ったものと考えられます。

 この7世紀中葉の移民政策は、前の時代に国造が置かれた福島県域、阿武隈川以南の宮城県域の北側に当たる仙台平野、大崎・石巻平野に広がっていて、国家政策と考えられます。

 移民主体の集落経営が安定すると赤井遺跡は7世紀後半~後葉、集落を取り込むように新たに東西約800メートルを大溝と材木塀で囲む囲郭(いかく)集落を造営します。設計方位は真北から20度前後傾く方位を基準としていて、大規模区画・遮蔽(しゃへい)施設の内部は多数の小規模掘立式建物群と小規模竪穴住居群で構成され、内部も材木塀で区画されています。赤井遺跡の囲郭集落内の状況は大型建物は認められず、均一的な小規模掘立式建物、竪穴住居が集中していて、機能別の場の使われ方は行われていません。

 そこでは東上総地域の土師器、在地土師器、湖西産須恵器等を主体的に用いているほか、新たに少数の北武蔵(きたむさし)地域の土師器が導入されました。

 ほぼ同時期の囲郭集落の遺跡には蔵王町十郎田遺跡、仙台市長町駅東遺跡、郡山遺跡I期官衙(かんが)、大和町一里塚遺跡、大崎市名生館官衙遺跡天望地区、南小林遺跡I期、三輪田・権現山遺跡があります。いずれも王権範囲の国造域よりも北の仙台平野、大崎・石巻平野に造営されています。設計方位も真北から20~30度ほど傾くもので、北武蔵地域に故地を持つ関東系土師器を主体的に出土しています。

 このような規模の大きな遺跡で構造や使用している土器も類似する状況から、囲郭集落造営はヤマト王権による国家政策と考えらます。材木塀あるいは材木塀と区画大溝で広範囲を区画する囲郭集落は日本海側で文献に残る「渟足柵」、「磐舟柵」に対応するものと考えられ、「柵」と考えることができます。「柵」の管理運営には「柵造」「判官」が当たると考えられ、移民集団である「柵戸」の中から主要氏族が任命されました。牡鹿郡では後に文献にたびたび登場する「丸子氏」(後に郡領(ぐんりょう)=郡の長官=となる「道嶋氏」)がその任に当たったと思われます。

■外来受け入れる

 移民集落期から囲郭集落(初期の柵)期の7世紀中葉から後葉は周辺地域に集落がほとんど認められません。関東系土師器を主体的に持つ竪穴で構成される小規模移民集落の東松島市野蒜亀岡遺跡、石巻市関ノ入遺跡、桃生城のみで、前時期に比較的大きな集落であった在地集落の桃生町角山遺跡も集落がいったん途絶えています。赤井遺跡も在地集落とほぼ同じ範囲に移民集落が形成され、それを取り込む形で囲郭集落(初期の柵)に変化する在り方から在地集落を取り込む施設として囲郭集落が造営されたようです。7世紀前半までの在地集落の時期から外来集団と接触していた在地集団は、移住してきた外来集団を排除することなく受け入れる素地を持っていたのでしょう。

 乙巳の変後に即位した孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇(中大兄皇子)の時代は蝦夷の地として扱われた石巻地方がヤマト国家の範囲に取り込まれる過渡的段階に当たるのです。

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